起業して成功して失敗した人のブログ

起業して成功して失敗した人のブログ

27歳で起業。5年で年商10億、8年で年商20億にさせた。けど10年目で破産。起業から成功まで、そして破産までをゆっくりと整理しリアルに描いていく。そして破産後の生活、社会状況も経験者にしかわからないと思うので書いていく。

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中国に生産工場を開きたい。


目標ができた。


前にも書いたが、日本国内で信用取引を行っていると、どうしてもキャッシュフローが悪くなる。

資本金300万円、これを大幅に増やすことなどとても出来そうにない。


中国の工場で、頭金をもらい、そして生産し、出荷し即入金されるシステムだと、材料費を後払いにすればいくらでも発展できそうな気がした。


人件費と言うのは、日本も中国も基本的に後払いだ。末締めの翌月末払いと同意義。

ひどい会社であれば、15日締めの翌月末払いの会社もあると言う。



この場合、従業員に45日間労働を「ツケ」てもらっている状態だ。



当時の中国の工場では、20日締めの翌々月という工場もあった。

この場合、70日間労働を先に借りている事になる。




工場の家賃は、これも日本も中国もほぼ同じ。

敷金を3か月~6か月払い、前家賃1か月払う。



しかし、家賃の場合はフリーレント期間というモノがあって、最初の6か月くらいは家賃が発生しない契約方法が存在する。


フリーレントは日本の方が多いが(交渉次第)、中国の工場では「改修期間」と言う名目で数か月サービスしてくれる。



やはりキャッシュフローはいい。日本より断然良い。



ただ、中国の工場を開くに当たっては



「設備投資」



が必要となる。



ここがちょっと面倒な個所だ。



工場さえ開いてしまえば、キャッシュフローは楽に経営できる。1000万円で月商1億円の商売さえもできるだろう。



しかし、生産工場には設備投資が絶対に必要だ。



この段階ではいったいいくら必要なのか全く想像もできなかった。1000万円なのか3000万円なのか、仮に1億円と言われても当時の俺には「そんなもんか」と思ったと思う。



知識ゼロの状態で、実際にうまくいくのかわからない。40歳に近づいた今であれば、とても冒険できない事だと思う。


でも当時の俺は、ほぼ悩むことなく、即決即断で中国に工場を開くためのプロセスを考え、そして実践した。



まず俺が考えたことは、



成功している、もしくは成功しそうな中国の工場に入り込むこと。



従業員として入り込むこと。


そうしない事には何も見えてこない。

会社には秘密があり、絶対に見えない部分と言うものも存在すると思う。中核をなす部分だ。


しかし、俺の経験で言えば、ある程度は分かるはずだ。90%いや98%くらいのノウハウは目で見えるはずだ。



当時、よく本を読んでいたが、その時読んだ本で書かれていた事を鮮明に覚えている。



成功したければ・・・・・




「誰にもできない事をやる必要はない。誰にでもできることを、誰にも出来ないくらいやるんだ」




今となっては胸に沁みるくらい良くわかる。当時の俺には深い意味は分かっていなかっただろう。でも、若かった俺を刺激するには十分な言葉だった。



「工場を開くなんて、誰にでもできるんだ。中国の怪しくて学のないおっさんが経営しているじゃないか。俺ならば絶対にできる。」



根拠のない自信の塊だった若かりし頃の俺は、出来ないと言う可能性を全く考えていなかった。



俺はすぐにクラウン工場を訪問し、新さんと会った。



「新さん。大事な話があります。」


「何?」


「俺を営業部長として雇ってくれませんか?」


「?営業部長?」


当時クラウン工場は決して大きな工場ではなく(後年すごく大きくなる)、日本向けに出荷していたけれど日本語スタッフは変な日本語使うし、やる気がない男だった(後日登場する中国人の光男君)。


営業という言葉さえも知らないような中国人の窓口に、品質管理の概念もない工場長。お客さんの要望の材料をなかなか探さない仕入れ担当。納期が遅れても特に気にしない総経理。


当時はそれでもお客さんは寄ってきていた。何故ならどこの工場も似たり寄ったりだし、完璧を求めることは当時の日本顧客はしなかった。



「営業部長にして下さい。お客さんを探してくるし、品質管理や納期管理も俺が管理します」


「・・・・・。」


「給料は不要です。その代り、俺が探してきたお客さんには出荷金額の4%をください。」


「・・・・・・・」



新さんは考えていた。いや、考えるふりだ。内心では大喜びしていた(後日そう言っていた)。



そもそも、クラウン工場のある地域は、中国の中でもトップクラスの田舎だ。本当に何もない。

都心部から車で3時間。当時は高速道路も無かった。



停電は週3回確実に起こる。コンビニどころか店もない。中国人でさえ、この地域は田舎すぎるからと言う理由で来ない人間もたくさんいた。



そんな場所に、大学を卒業した日本人を雇うチャンスなどあるわけがない。今までずっと求人募集していたようだし、日本人ではなく、中国人でさえも大学卒業者は働いてくれない。



それが給料ゼロで、しかも、新規顧客を開発すると言っている。品質管理も納期管理も見ると言っている。



断るわけがない。っと後日新さんが言っていた。


しかし、そこは商売人の中国人。さっそく飴と鞭を使いだした。



「わかりました。ただ、4%は厳しいので3%にして下さい。その代り、あなたが日本に帰国する際の飛行機代と、出張費、は会社で負担します。あと携帯電話とパソコンも支給します」



出張費なんていうのは会社が出して当たり前だ!っと言いたかったが、それは言わなかった。



では早速翌月から働きましょうとなって、最後に言い忘れていたことがあったので伝えた。


「新さん。後日トラブルになるのは嫌だから先に言っておくけど、俺は将来的には自分で工場を開きたいと言う夢がある。それについて何か約束事があれば今のうちに行ってください。」



「そんなのは誰でもそうですよ。実力があって資金があれば皆独立したいと思っている。私だってそうしたから。ただ、仁義として2つだけ。顧客を引き連れていかない事。もう一つは幹部従業員を引き抜かない事。これだけ。」


「わかった。約束する」



契約書を結んで、翌月から働くことになったと皆に紹介された。


総員40人くらい。


26歳でその現場の最高責任者になった。



そして、日本の業務をまとめて次男に引きつぐためにおれは帰国した。

日本から給料30万円もらえるからこそ、無謀な挑戦ができる。上手くやらなければ・・・。



帰国した俺を待っていたのは、次男が起こした面倒なトラブルだった。



香港に会社を設立した。これで日本の会社と香港の会社の2社の経営者となった。


今考えると愚かで嘆かわしいのだが、まだ27歳だった俺は、複数の会社を経営しすることがかっこよく、スマートであると本気で思っていた。


「会社をいくつか経営している」


多分どこかの本ででも読んだんだろう。それがかっこいいと思っていた。


この愚かな思想はこの後も数年続き、最終的に俺は会社を5つも作った。意味があるものもあったかもしれない。しかし、ほとんどは見栄と意味のない価値観であったと思う。



香港で会社を設立するのと同時進行で、俺はもちろん日本にも帰っていた。日本の会社も立ち上げたばかりで、次男に任せきりと言うのもまだ不安だったし、そもそも、新しい会社ではやることがたくさんあった。


他の事を考える余裕はあまりなかった。


田村氏の注文を受けてから、もちろん工場には生産時間がある。1か月ほど。その間、貿易方面では特に進展はなかった。新規発注も田村氏からは無かった。そりゃ当然で、まだ初回の納品も出来ていないのだから。


中国・香港側では何もすることは無いし、日本ではやることが山積み。次男はまだ信用できない。


そうなれば、いくら「面倒なことから逃げたい病」の俺でも、日本に帰って業務しなければならないと分かる。



日本に帰って、ひたすら出品や、日常業務、顧客対応などの地味な作業に没頭した。



正直言って、この日本の業務は嫌いだった。パソコンの前に座り、地味な作業を繰り返す。電話が鳴れば出る。クレームを受ける。


終わりのない、延々と続く作業に思えた。俺の心は既に中国の工場に向いていて、正直心ここにあらずだったかもしれない。


そんな思いとは裏腹に、日本の会社は順調に成長する。


初めての注文をもらってから、2か月後に月商100万円を超えた。これで次男にも初めて給料を出せた。

当時の会社のランニングコストは極端に低かった。


まず給料は俺と次男で15万x2 =30万円。これも赤字になりそうならいくらでも減らせた。


次に家賃は、中古マンション。家賃5万円。水道費込。


ショッピングモール固定家賃2万円。電話代1万円。その他5万円くらい。


100万円の月商で損益分岐点になるくらいになった。


一日の売り上げがゼロの日はとても憂鬱になった。



「明日もゼロだったらどうしよう」



この不安は売り上げが月商1000万円を超えるまで常に付きまとった。


朝会社に来てまず売り上げを確認する。


「今日は何件の注文で売り上げいくらだったね」と言うのが次男との会話の中心で、お互いに安心を確かめ合っていた。


反対に売り上げがゼロの場合は、二人して憂鬱になった。



「ぜろだったよ・・・・。」



たまに電話で報告を受ける。当時は携帯でネットなどあまり見れなかったから。



「そうか・・・」



売り上げゼロ。誰も買ってくれなかった日。この恐怖は本当に今思い出しても怖い。



新しいビジネスをする時に一番怖いことだ。要するに社会に受け入れてもらえるのかと言う。



ラーメン屋開いても同じ気持ちになると思う。



「今日は誰もお客さんが来なかった・・・。明日も来なかったらどうしよう」



様々な不安や問題、そしてシステムなども2人で考えながら、それでも1歩ずつ進んでいった。

当時の心境としては、成長がとても遅く、このままではやばい、という危機感の方が強かったのだが、今振り返ってみると、通常よりもとても速く成長していたのだと思う。


いや、むしろ成長が早すぎたのかもしれない。


創業から


・2か月・・・月商100万円突破


・3か月・・・月商300万円突破


・6か月・・・月商500万円突破


・1年・・・・・月商1000万円突破


・3年・・・・・月商3000万円突破


・5年・・・・・月商6000万円突破


・7年・・・・・月商1億円突破



今となって思えば、6年で売り上げが10倍になっている。たった6年。


たった6年で今まで個人事業の延長だった事業が、月商1億円、年商12億円の会社になった。


しかし、内部の組織は急には変われない。

今まで個人レベルでやっていたり、なあなあの適当レベルでやっていた仕事が、回らなくなる。効率が悪くなる。


売り上げが5億を超えるとその段階で、10億円の売り上げを見越した組織づくりを進めなければ、10億円の段階で利益が出なくなる。



混乱するのではない。ただ混乱するだけなら特に大きな問題は無いだろう。



組織づくりを、明確な理念(やるべき事)を持って取り組まなければ、5億の時に多くの利益が出ていても、10億になった途端利益が出なくなる。



組織づくりは、時間をかけて、明確なビジョンを持ってやらなければとても難しいものとなる。核のない組織は機能しないばかりか、多くの無駄を生み、利益を圧迫し、あっという間に赤字に転落する。



急成長すると、その組織づくりに社長の力量が試される。



急成長の弊害はもう一つ。


それは、


「周りが見えなくなる」



急成長する会社の社長は、税理士や取引先から褒められる。そして、納税をすると、銀行からも向こうからお金を借りてくれとか、こんな金融商品どうとか営業に来る。


「すごいですよ、本当に」


「僕も社長のところで雇ってください。銀行は面白くないんです。」


「社長は地元の名士ですよ。今度xxさん紹介させてください」


「今まで見たことがありません、こんなすごい会社、すごい社長」



煽てられ、持ち上げられると、30歳前の俺は調子に乗る。傲慢になる。



税理士に


「接待費月30万くらいまで使っていいですよ。社長飲みにでも行ってください」



金遣いが荒くなる。


急成長する会社の社長は、試されることが多かった。傲慢な思考に甘い誘惑。


俺はふるいにかけられ、そしてふるい落とされた。


時系列が変わるので詳細はまたその時に書こうと思う。話がそれてしまった。



要するに、創業から半年で月商500万円を超えて、俺は給料を30万円もらえる様になった。サラリ-マン時代の月収を超えた。


これが嬉しく思ったのと、そしてこれが転機だと思った。



中国で工場を開く。



まず稼ぎながら、勉強し、修行し、資金も貯めるんだ。



30万円は日本の会社は大丈夫だ。次男も成長した(そう自分に思い込ませていた)。



そして、俺は意を決して、中国に拠点を移すことにした。

10年前の香港。

当時すでにアジアでは金融で有名になっていたが、俺にとってはマフィアやブラックマネーが飛び交う怪しいと言うイメージだった。


当時の香港人はあまり香港の未来に希望を持っていなかった。

香港がイギリスから中国に返還され、一国二国制度を敷いた。


それを不安に思っている香港人はたくさんいた。


実際今ではちょっと信じられない話だが、当時の香港ドルは中国の人民元よりも交換レートが高かった。


例えば、1000香港ドルは1200人民元に交換されるみたいな感じ。


1000HK$持っていけば、1200元もらえた。



しかし、あれよあれよと、あっという間にそれは逆転した。体感速度で言うと本当に一瞬だった気がする。



気が付けば、1000香港ドルは800人民元。



地下鉄も圧倒的に伸び、不動産価格も何倍にもなった。



全て中国パワーの引っ張られて成長していった。

当時の悲観していた香港人も中国がここまで発展すると予想していなかったのだと思う。



法律の部分でも香港と中国は深く連結し、深く闇を抱えている。

その実例を紹介しよう。



俺は田村氏と、クラウン工場で知り合った会社設立代行の社長と出会ってすぐに、その社長に香港に会社設立を依頼した。



必要なことは


・会社名を決める事(漢字と英語、そしてその名前が既に使用されていないかチェック)


・資本金を決める事(適当に決めてくれと言われた。だから1000香港ドル(1.5万円くらい)にした)



以上。それだけ。


あとは私(代理会社の社長)がやると。俺に任せてくださいと言われて、2週間後、会社は設立されていた。

銀行口座もセットになって、社印、小切手、営業許可書、納税証明など送られてきた。



非常に簡単すぎて、逆に不安になった。


ともあれ、これで香港に法人が出来て、銀行口座が開けた。

この2つがあれば、中国でのビジネスがすごく便利になる。



何故便利かと言う話を書くと、中国のふはいやブラックな部分に触れるので書かないけれど、どちらにしてもあっさりと法人が出来て便利になったことは言うまでもない。


田村氏はとても喜んでいた。


この時までが俺と田村氏の関係は一番良好だったと思う。

まるで昔からの親友のように色々と語り合ったし、遊びに行った。


一緒にいて楽しかったし、その関係はこれからもずっと続くものだと思っていた。しかし、田村氏とは結局1年で関係が終わる。


それも想像もしていなかった最悪の形で。

ごみのような生活を送っていたけど、8月8日に昔からの知り合いから電話が来た。

そして急きょ香港・中国に8月9日から昨日8月31日まで出張に行っていた。



中国出張中は俺は経費を使わないために、工場の工員の部屋に寝泊まりして、工場で食事をとった。無線LANなどあるわけもなく、毎日更新しようと思っていたブログがまさかいきなり挫折することとなった。


依頼が入った。


商品をコンテナで買いたいと。交通費出すから、交渉と検品に行ってくれないかと。


報酬も20万円出すと。


家にいても暇で、破産手続きを待っている状態。何もすることは無く廃人同然だった身としては、願ってもない話で、20万円の報酬はのどから手が出るほど欲しかった。


そしてなによりも1年ぶりに家族以外の人と話をし、社会とのつながりを持てることが嬉しかった。


社会とのつながり。


今まではそんな風に考えたことは無かった。

毎日会社に行って、社員のみんなや取引先は何も言わなくてもよいしょしてくれる。


「社会」とのつながりなんて考えたこともなく、人と話すこと、ビジネスの話をすることが当たり前で、その煩雑さが嫌なときさえもあった。


「社会」とつながると言う事。


それは思っていたよりもずっと大切なことかも知れないと思う。誰ともつながらず、話もせず、ずっと家にいると言う事。それはとてもさみしく、無力感が増幅する。


人が生きると言う事は誰かと何かでつながっていると言う事。ありきたりだけど、今まで実感したことは無かった。これを身を持って感じることができた。



今回久しぶりに昔の取引先の社長や工員にあった。

昔と変わらなく接してくれた、と言う事は無かったけど、普通にお客さんとして接してくれた。


惨めだと思う気持ちもあったが、その気持ちよりも誰かと接し、そして彼らは皆上を向いて生きていたから少なからずエネルギーをもらった気がする。


色々なアイデアを実現したいと依頼された。


どうやら俺ができる事は、まだ価値があるかもしれないと思った。


そうやって思えたことが、今回の仕事で得た一番大切なことだと思う。


憂鬱な気持ちは今も変わらない。

絶望感も脱力感も相変わらず今でもある。


でも少しだけ、元気が出た。


前を向いていけそうな気がした。


また明日からブログを更新しようと思う。



クラウン工場から多額のコミッションをもらって、出荷貿易書類などの打ち合わせを行ってから、残りの時間色々な工場を見て回った。

田村氏は全ての工場に満足していた。

その後田村氏とマッサージに行ったり、危ない店に行ったり、残りの時間を満喫した。

最終日にクラウン工場によって打ち合わせをしていると、ふと貿易決算の話になった。

クラウン工場は香港系企業として中国に登録している。社長の新さんは生粋の中国人なのに何故香港系にしたのか?

いろいろな理由があってとても面白かった。

まず外貨を取り扱う自由度が香港は圧倒的に高い。中国系の銀行は外貨を取り扱うのに規制が多すぎる。


その次に税金。

香港は利益に対して17、5%の一律税金。しかも経費の自由度が高い。

更に外国人の場合面倒な調査なども無い。仮にあっても抜け道が多数存在する。

秘書代行業のようなビジネスも無数に存在する。その代行業の会社が全ての問題を解決してくれる。

今はブラックマネーの関係で厳しくなってきたけど、当時はやりたい放題だった。

そしてその秘書代行業の会社の社長が、俺たちが最終日にクラウン工場を訪問した時にたまたまクラウン工場に来ていた。

これも一種の運命だったと今ではそう思える。
クラウン工場で田村氏の気に入った商品が見つかった。日本でもまだ価格が高く、価格の透明性が見えにくい商品だった。

田村氏曰く、日本での価格の半額で売れれば、きっと売れるとのこと。

工場から直接買ったからといってそんなに安くは売れるわけないだろうと思ったけど、そんなそぶりは見せずに新さんと様々な交渉をした。

その最中に新さんはしきりに「あなたはどうするの?」と聞いてくる。

当時の俺には何の事だか分からず、「俺のことはいいから早く見積もり出してよ」っと言い、そして見積もりが出た。

思っていたよりもかなり安く、田村氏と話していた受け入れられる価格よりも20%安かった。

田村氏はその場で注文をくれた。

総額300万円くらいだったと思う。
あっさりと注文が決まって、取りあえずホッとしたのを覚えている。

田村氏とは出発の飛行機の中で、口頭約束ではあるが、もしあなたのアテンドで出荷したら5%手数料払う。大丈夫ですか?5%で?

と言われていた。

正直言って、今回はそういった事になるとは思っていなかったので二つ返事で受け入れた。

それがまさかこうなるとは、いきなり15万円の利益だよ、出張費稼いじゃったよ。なんてちょっと浮かれていたかもしれない。

その後、出荷の打ち合わせや、書類など打ち合わせしていて、何かのタイミングで新さんと二人になった。

新さんは小さな声で言ってきた。

「よくわからなかったからさ、取りあえず15%載せておいたから。後で銀行口座教えてね。」

俺は何の事だか分からず

「何を?」

とトンチンカンな事を聞き返した。

要するに新さんは今回の価格に15%上乗せしてそれを俺にくれるという。

金額にしたら45万円。

当時の俺は思いっきり引いた。

「いやいやそんなの要らないから、その分安くしてやってよ。

「いや、あなた、それは違うよ。田村氏もこの価格で大満足している。私もこの価格で満足している。そこに罪悪感持つ必要は無いよ。あなたも経費かかるし何よりビジネスでしょう。」

そういう流れで、今回の注文で60万円も稼いだ。

俺がこの時思ったことは、「一体新さんは、工場というのは、どれくらい儲かるんだ?」

と言う素朴な疑問だった。

俺に45万円払うくらいだ。工場はもっと儲かっているんじゃあないか?

もっと工場のことが知りたい。

少しずつ俺の取り巻く環境が変わりつつあった。

クラウン工場に到着した。


正直クラウンの社長とは前職の時には仲が良かったと自分では思っていたが、実際に商社を辞めて訪問して果たしてどのような顔をするのか正直自信がなかった。


大組織を離れ、一人になった時どうなるか?


俺の心配をよそに熱烈歓迎、以前と変わらぬ扱いをしてくれた。

とても嬉しかった。


この社長とは昔から話が合った。

このクラウン工場の社長は本当に絵にかいたような出世街道で、話を聞くだけで面白い。



この新社長。実はつい5年前まで普通の工員。月給400元(6000円)で毎月休みなく働いていた。

特別なコネがあるわけでもなく、本当に末端の工員。しかし、この社長も数少ないチャンスを確実にものにしてきた人物だと思う。


簡単にまとめると、新社長は工員時代に「このままでは一生工員だ」と思い、ひそかに数字と会計の勉強をしていた。それと同時に当時の有望な若手工員、それぞれの部署の若手工員に少ない給料で酒をおごったりご飯を奢ったりしていた。


ある日工場で経理の社員が辞めて、次の募集をかけていた。新さんは自ら立候補し経理の職に就いた。経理の給与は末端の工員よりも高い。


しかし、新社長は給与は末端工員のままで良いので、経理をさせてくださいと直訴した。


当時の社長に気に入られ、経理を任せられてあっという間に工場の実態を把握。顧客情報も把握。そして1年前までは若手工員だった奴らも、経験を積んで出世した。新さんの事を姉のように慕っていたという。


たった1年で、工場経営の基礎を把握した。そしてその工場で実力を大いに発揮し、女帝のような振る舞いを見せていた。当時まだ23歳前後だったと思う。


しばらくして、日本の山田さんという日本市場にもパイプを持っている人間と、もう一人の香港人が新さんに近づいてきた。


「俺達三人で工場を作らないか。必要なお金は一人30万元(450万円)。」


「三人で業務を分担して、新しい工場を開こう。利益も三等分しよう!」


新さんはこの提案に何が何でも飛びつきたかった。450万円など、1年で稼げる。社長になりさえすればその自信はあった。


しかし、月収は上がったといってもまだ月2万円前後。年収で24万円。20年分の賃金だ。そう簡単にはいかない。


新さんは友人、知人、親戚あらゆる知り合いからお金を借りてそのお金を集めた。


それでも足りない。


しかし、この新工場は新さんの協力なくては立ち上がらない。


結局新さんは450万円用意できなかったけれど、足りない部分は山田さんやLAさんが貸して、後日利益から返却するという条件で合意した。



その後3年ほどその3者合同の会社で資金を作り、一昨年(俺が田村氏と訪問する2年ほど前)に100%自分出資のクラウン工場を開いたという感じだ。


そしてその後、新さんは先述した工員1000人以上の大工場の社長となる。さらに副業でも不動産で大儲けした。不動産に関しては後述するが鋭い嗅覚、今となっては中国の不動産の上昇は既成事実だが、当時は俺たちも含めだれも買わなかった。


「日本のバブルと同じだよ」

「今がピークだよ、もうすぐ弾ける」


など10年前に偉そうに言っている日本人はたくさんいた。


この時に土地の価格は平米1000元→2000元になっていた。二倍になっていた。これをバブルのピークと見た日本人や香港人、中国人は本当にたくさんいた。


結果、この都内の土地は平米3万元、もっと高いところでは5万元まで上昇した。


単純に20倍。1000万円が2億円。



話がそれたが、このクラウン工場の新さんに熱烈歓迎を受けて、俺は商談の席に着いた。

香港展示会が終わり、田村氏の希望もあり中国本土の工場を回ろうということになった。


そこで強く印象に残っていることがある。


香港展示会では基本的には簡単な英語が通用する。ブースの担当と英語で会話するので、田村氏も参加できたし、意見も簡単なものは言えた。


しかし、中国本土に来ると途端に英語は通用しなくなる。

最初は英語で話しかけるのだが、2日ほどすると英語を話すことさえも辞めて、完全に通訳に頼ってしまう。


ある朝、俺はある工場にいくのに道に迷った。

でも迷うことで時間をロスしては失礼だと思い、わからなくなった瞬間に道端の路面店のおじさんに道を聞いた。


おじさんとの距離は5mくらいか。


「おじさん、あのバス停はどこだっけ?」


「ああそれならそこまっすぐ行って右だよ。どこに行くんだい」


「ちょっとあそこまでね」


「ああ、なら大丈夫、バスはあるよ」


みたいな感じで簡単なやり取りをしてたら、それを聞いた田村氏が、


「○○さん、あんたすごいね。中国語。ちょっと出来るとかいうレベルではないね、ペラペラだね。今まで何人も「中国語できる」って人と一緒に出張に行ったけど、レベルが違うね。」



俺が印象に残っているのは、別に褒められたことを自慢しているわけではない。俺が今でもはっきりと覚えているのは、そう言われたことがとっても嬉しくて、とても自信が付いたということだ。


「自信」


別に根拠がどこでもいいんだと思う。何もわからないおじさんに褒められても、大学教授に褒められても、誰に褒められてもいい。


まず、根拠のなかった自分の自信を、根拠のある絶対的な自信に変えなければならない。


自信がなければ何もできない。魅力的なオファーもチャンスも断ってしまう。


田村氏は何気ない一言で言ったんだと思う。今ではもう覚えていないだろう。


しかし、若かりし時の俺にとってその言葉は10年たった今でも生きている。

つらく苦しかったときに、俺はできる人間なんだと言い聞かせる材料として大切な言葉として生きていた。



そうして、俺たちは「クラウン工場」に到着した。


クラウン工場。

業種は避けるが、小さな町工場のような工場で、社長は人柄もよい女性の社長だった。

当時の印象としては、価格は安いし、競争商材を生産する事に抵抗がないけれど、まだ品質や梱包、また顧客対応面で発展途上のイメージのある工場だった。


工員は30人くらい、工場面積も2000平米くらい。日本語スタッフもいない。

検品体制も。出荷体制も何もかも中途半端な工場だった。


余談だが、この訪問から5年後、このクラウン工場は工員は30倍の1000人、工場面積は20倍の4万平米のマンモス工場に急成長する。


その急成長の中枢に俺はいた。





次男とのトラブルは今後も続くので、いったん区切り、メインの香港出張に切り替えたい。


この香港出張は後の俺の人生を大きく変えた。

もしこの香港出張に行っていなければ、俺は全く違う人生を歩んでいたと思う。


3つにまとめると


1.俺の得意とする商品が世間的に通用した。


要するに貿易商として中間に入るブローカーとしての需要があり、当時の俺はある程度のレベルで世間的に通用した、と言う事が分かった。


当時の中国はまだ工場も少なく、アリババなどもなく、企業がHPを作ったりもしない。

集客は展示会への参加で、そこに来た顧客に自社の商品をアピールすると言うスタイルだった。


もちろん、それでも工場は数百社レベルであり、俺が取り扱っていた商品の工場も数百あったと思う。


それでも俺が優れていた点は、この工場が、日本と言う世界から見て特殊な市場に対応できるか?薄利多売を耐えれるか?などをその工場の社長と中国語で話して見分けることだった。


もしくは見分けられなくても、説得することができた。

俺は中国語を使って「説得する」「ビジョンを語る」と言う能力にたけていたのだと思う。



2.中国で現在の嫁と知り合った。


中国で嫁と知り合ったのはまだ後年だが、この香港出張が無ければ知り合うことは無かった。

これは後日まとめたい。



3.まずは中国で資金を稼ぐことの重要さそして簡単さに気が付いた


日本で資本金300万円で会社を作り、まだ軌道には乗っていない状態で、どのような夢が見れただろうか?


売り上げ1000万円にするには最低でも1000万円以上の資金が必要だ。

自社輸入仕入れを行い、自分で在庫し、売り上げ5000万円目指すなら、資金は最低でも1億円は必要だ。


ネット通販は後年、クレジット決済が主流となり、店舗側がクレジットのお金を受け取るのは、翌月末であった。8月1日に売れたものが9月25日に受け取ると言うモデルに代わっていた。


この支払サイクルを短くするには、手数料を2%ほど多めに払えば短くはなる、しかし、競争厳しいネット通販で2%と言えばとても大きいものだ。


要するに、資本金300万円で日本でコツコツやっていたら、10年たっても売り上げ1億円は難しいだろうと。

銀行から借り入れるなどしなければ、資金が無ければ商売は出来ない。



しかし、中国は違う。貿易は違う。



まず工場は海外に商品を出荷するが、海外とのお客さんとの取引には通常L/C(信用状)を使う。


これはお互いに信用を確かめることができない海外でのビジネスを円滑にするために、それぞれの国の銀行がその会社の信用を保証し担保するというもの。


だから工場はL/Cを開いてビジネスを行えば確実に代金を手にできる。日本国内で売り掛けで相手の倒産リスクなどを考えると、貿易の場合ほぼ100%代金決済が約束される。


L/Cは手数料がかかるため、工場によっては信用できるお客さんとは電子送金(T/T決算)を行う。


これは日本のお客さんがまず工場に30%の頭金を払い、それを受けた工場が材料を発注し、生産する。

生産が終わったら出荷し、日本の港に到着する。


そこで船荷証券(BL)という貨物引換券のような書類を工場はお客さんに渡すわけだが、この渡す直前に残金を払ってもらう。


残金が払われないとB/Lは渡さない。


極めて安全だ。


安全と言う事ももちろん大事であるが、もっと大事なのはこのビジネスモデルは元手が少なくてもできると言う事だ。


まずお客さんから頭金をもらう。そして材料を買う。材料を買うときは中国の国内仕入れだから支払いは末締めの翌月払いだ。


要するに、100%安全なばかりか、お客さんからお金をもらってかつ、材料の支払いを遅らせる事が出来る。


しかも、これに抵抗を持っている日本の会社はいない。すんなりと条件を受け入れる。

日本であれば到底受け入れない大企業、恐らく日本国内ではものすごく傲慢で押し通せる力を持った会社でさえも、このシステムは受け入れる。



キャッシュフローが非常に優秀なビジネスモデルだ。


これが俺が目を付けた一番大事なところだ。



少ない資金で100倍の売り上げを上げるには、このモデルしかないと思った。

このモデルを応用して成功させれば、短期間で稼ぐことができる。


そして、俺は田村さんを連れてクラウンという名前の工場に向かった。


ここでこのビジネスモデルがもっと確実になる。


知り合った貿易会社の社長、田村さん(仮)。


年は俺と同じで、年商5億円くらいの貿易会社の社長だった。


出身も俺の故郷と近く、話も合った。



空港で待ち合わせをして会った。実際にはそれが2回目であり、まともに話をするのは初めての事だった。


香港に到着し、ホテルに泊まった。


道中いろいろな話をしたけれど何を話したのかまでははっきりと覚えていない。


とても緊張していたことは覚えている。



展示会を二人で回った。良い商品があったのかどうかは覚えていない。恐らく良い商品はなかったのだろう。何も発注していないのだから。



展示会場はとても広く、ゆっくり回ると丸1日かかる。


ふと日本の次男の事が気になったから、昼ご飯を食べるタイミングで一度事務所に電話した。

昼ごはんと言っても朝食と兼ねていたから時間はまだ香港時間10時くらいだったと思う。



香港時間10時、日本時間11時。もちろん午前だ。



電話したけど、電話に出ない。んっ?おかしいな?




5分後にもう一度電話する。やっぱり出ない。おかしい。



この電話はお客さんや運送会社からもかかってくる電話(当時は回線が一つしかなかった)し、話中であれば繋がらない(キャッチホンは入れていなかった)。



また電話する。出ない。



俺は怒りが募ってきていた。昨日の夜出発して、次の日の朝もう電話に出ない。

出がけに何度も言った。電話だけは絶対に出ろよ!っと。



何度も電話する。食事中何度も電話する。


結局食事中には電話がつながらない。



電話をかければかけるほど、怒りが積もっていく。どうしようもない怒り。




午後2時になっても電話に出ない。もう50回は掛けただろう。

携帯もでない。メールも返信しない。




午後3時、とうとう我慢できなくなって母親に電話をかけて事務所の様子を見に行ってもらった。



そしたら事務所にはいた。電話に代わってもらった。




「なぜ電話に出ない?」



「いやー、何か一回目で出なかったらもう怖くて。兄ちゃん怒っていると思って怖くて電話に出れなかった」


「事務所の電話に出ないと仕事できないだろう」



「そうだけど・・・。悪いと思っているけど・・・」



もうそこでブチ切れた。




「お前何を考えとるんじゃ!殺されたいのか!ふざけたことするんじゃねー!」



みたいなとにかく最高に切れて滅茶苦茶怒った。過去もうこれ以上ないと言うくらい怒った。怒鳴った。




「いいか、今後どんなことがあってもとにかく電話にだけは絶対に出ろ!いいな!」



そういって電話を切った。



今でもはっきりと覚えている。あの時の怒り、あの時の口調を。





しかし3日後また電話に出なかった。



香港から日本に帰る前日も電話に出なかった、そして・・・




俺が日本に帰国した日、次男は行方不明になった。


電話に出なかったこと、そしてまた怒られること、やるべきことをやっていなかったこと、全部が恐ろしくなって、次男は行方不明になった。



帰国してから3日は俺は一人で回した。次男は見つからない。俺からの電話には出ない。



3日後母親の電話に出たと連絡が来た。


とにかくもう辞めるにしても一度こっちにこいと、怒らないから電話には出るんだと伝えてもらって、やっと電話に出た。




怒られるのが怖かったから・・・。



俺は我慢して笑顔で、「でもそんな事していたらどこでも通用しないぞ」



俺の笑顔を見て、次男にも余裕が生まれた。そして今でも忘れられない言葉を吐く。





「ずっとチャングムの誓いの続きが気になっていたんだよね」





本気でぶん殴ろうかと思った。こいつはチャングムの誓いという当時大流行していた韓国ドラマを見ていたのだ。あれはものすごく長い。全編100時間くらいあるはずだ。




こいつはダメだと思った。何とか鍛えなければと思った。




今思い返せば・・・・・・




次男もその後業務を覚え、日本事務所の責任者としてある事件が起きるまでは頑張ってきた。頑張ったかどうかは置いておいて、結果を出してきた。




それでも、次男と俺との関係はこの香港出張のこの電話の事件、チャングム事件と何ら変わっていなかったんだと思う。




兄弟であることの「甘え」





次男が俺に甘えていると言うのはもちろんだ。こんなこと実兄以外の会社で許されるはずがない。




でも・・・・当時は気が付かなかった。当時は次男が俺に甘えていて困っていると思っていた。公私混同、会社では社長として接しろと何度も言ってきた。




でも・・・・今、すべてを失って、そしてこうやって考えてみると、俺もあいつに甘えていたんじゃないだろうか?



普通の社員にああいう言葉づかいをするか?大きな声で怒るか?



話し方、接し方、仕事内容など含めて、俺も次男を兄弟だからと見て甘えていたんではないだろうか?





香港出張はまだまだ長いので、次回にします。