要介護と認定されたのが令和2年の夏。
認定される2年ほど前から、だんだんと物忘れや行動が怪しくなってきました。
そんな父親のプロフィールについて、今日はお話したいと思います。
・生まれは東京のはじっこ
・昭和10年生まれ
・姉一人、弟三人
・祖父は戦争で亡くなる
・夜間高校卒業
最初に就職した工場を2年ほど勤めて転職。
知人の勧めで、とある会社の中途採用試験を受ける。
父が50代の頃、自慢げに中途採用の話を聞いた。
採用が3名程度のところに数百人の応募があり、
体育館のような場所で筆記試験が行われたと。
あまりの多さに受かるとは思わなかったと。
そんな話を聞いて、素直にすごいなと思ったし、
夜間高校卒で、いわゆる上場企業に再就職でき、
その後家族を養ってきてくれたことは尊敬に値した。
再就職して数年後、勤務先で休憩中に同僚がテレビのニュースを見て一言。
「この事故って地元じゃない?もしかして近所かもよ」
そういわれて、テレビをのぞき込むと地元だし近所と言うより自宅だった。
昭和30年代後半から40年代にかけてアメリカ軍の戦闘機が民家に墜落する事故が何件か発生。
そのうちの1件が父親家族(祖母と叔父)が住んでいた家だった。
その日は、叔父が夜勤明けで寝ていたが墜落時に吹き飛ばされた。
吹き飛ばされた先は、向かいの家の屋根の上。
しばらく気を失っていたそうで、気が付いたら屋根の上で驚いたそうです。
幸いにも誰もけがはなかったが、住む家を失った。
それで、今の自宅に引っ越してきたらしい。
らしいというのは、当時のことをあまり語りたがらない。
なんとなく、こちらもそれ以上は聞かない。
墜落事故から3年後に母と結婚し3人の子どもを育てる。
しかし、今のような子育てはせず、ほとんど母任せ。
特に子どもの頃の思い出もないが、父親の印象は超真面目な男という印象。
几帳面でワイシャツはアイロンをかけ、革靴は自分で磨き、いつも清潔にしていました。
常に身ぎれいで、休日にパジャマのままゴロゴロするようなことはなかった。
現場勤務から本社勤務になってから、飲み歩いて遅くなったりゴルフを始めたり、
土曜日も家にいないことがあった。
そのため、父親が必要なことが無かった。
相談することもなく、話をすることもなく、会社かゴルフに行く同居人のようでした。
特に面白いエピソードもない話でした。
でも、認知症になり段々とひどくなってきてから、母親が愚痴りだし、
若かりし頃の父親の行いを聞いて驚いたと同時に、
どうしようもねー親父だと思いました。
その話は、またいつか。
こんな父親だが、自分の親だから、出来るだけ支援したいと思う。
でも、時々むかつくときもある。
介護サービスを提供しているなら我慢できるが、身内だと我慢ならないこともある。
家族の介護は面白いところもあれば、顔も見たくないほど嫌なこともある。
今日も元気にディサービスへ行ってくれてよかった。
では。