「必要」(need)という言葉は人が使う言語の中で、もっともゆるく包括的に使われている言葉です。
私たちは色んなものを「必要」のカテゴリーに入れすぎてしまう傾向にあります。
だからこそ、イエス様は私たちに何が必要なのか天の父が最もご存知であると
リマインドしてくれるのです。(マタイの福音書6章)
このリマインドによって、私たちの中に安らぎと同時に葛藤も生まれます。
安らぎというのは、全ての創造主であり統制する方がいらっしゃるということ、
その方がご自身の力によって、私やあなたがあるべき自分になり、
御心に沿った人となり、そして召されたことを行うことができるようになるために
全ての良い必要なものを与えてくださるのです。
必要なものがこの方の手によって満たされないということはありません。
しかし、同時にこのリマインドは私たちの中に謙虚ではあるけども反発心を生み出します。
私たちは天の父に私たちが何を必要としているか知っていて頂く必要があります。
なぜなら私たちが自分自身で分からないからです。
私たちはよく「欲しい」(want)と「必要」(need)を取り違えてしまいます。
最初は「願望」や「欲求」(I want...)から始まります。「願望・欲求」自体が悪いことではありません。
神様は私たちに「願望」や「欲求」を備えてくださいました。私たちの全ての言動は
「願望」や「欲求」から来るものです。
ただ、私たちのような罪人にとっては自分で「願望や「欲求」を抑えることは非常に難しいです。
やがて「願望」や「欲求」(I want...)は「要求」(I must...)に変わります。
それが私たちにとって手に入れなければならないものになります。
それ無しでは生きていきたくないと思うようになり、だんだん私たちの心をコントロールして
いくようになります。。
それから「要求」(I must...)は「必要」(I will...)に変わります。
私たちはそれ無しでは生きていくことは不可能と確信するようになります。
それは完全に私たちの心を支配しています。いつもそのことを考え、それが無いと恐怖さえ感じます。
それをどうやってずっと自分のものにしておくか、常に考えています。
しかしこの囚われてしまった感情はここでは終わりません。
この「必要」(I will...)は次第に神様への期待(You should...)へと変わっていきます。
もしそれが「必要」なものであると確信しているなら、自分にはそれを得る資格があると考え、
更にそれを求める権利があると考え、それから神様がそれを与えてくださるかどうかで
神様の愛を確かめようとするようになります。
それから「期待」(You should...)は「絶望」(You didn't...)へと変わっていきます。
神様が私たちが思う「必要」を満たしてくれないので、信じられなくなります。
でも真実は、神様はずっと、神様ご自身が私たちに約束してくださったことに関しては
誠実に果たしてくださっていて、「必要」なものに変化していった私たちの「願望」や「欲求」は
神様が約束してくださったものではないのです。
そして「絶望」(You didn't...)は「怒り」(Because you didn't, I will...)へと変わります。
私たちは神様を嘘つきであると判断し、神様を信頼することを辞め、信仰からくる良い行いさえも
止めてしまうのです。
イエス様が来られて偶像礼拝(金銭的豊かさ、物質的豊かさなどを含む)から私たちを解放してくれて
良かったと思いませんか?
<引用・翻訳>
NEW MORNING MERCIES - A Daily Gospel Devotional -
著者:Paul David Tripp
7月10日のページより
----------自分メモ----------
欲しい物がたくさんある。夢もある。
それら自体は悪くないこと。
だけど、なんのためにそれが欲しくて、それを成し遂げたいのだろうか。
「そうじゃないと幸せじゃない」ともし決めつけてしまっていては危険。
そしてそれを聞き入れてくれない神様に疑念を抱いてしまっては更に危険。
神様は私の祈りが神様の御心に沿っていれば叶えてくださる。
でも決して自己中心的な欲求を満たすために存在しているのではない。
祈る時、それが自己中心的じゃないかもう一度考えてみよう。
祈りが叶わなかった時、神様はより素晴らしいご計画を私のために用意してくださっていると信じよう。
御心に沿った祈りについて神様に知恵を乞おう。