nekoです。juriさんの記事、興味深かったです。法学の世界は暴力関係のところをきっちり詰めて考えているんですね。さすがです。


さて、今回はこんな感じで。


1.「一般人」とは何者か


 jurisさんが言うように、「一般人」を想定した上で暴力を定義すると、暴力の受け手の感覚という基準は背景に遠のいて、外部観察者の正当化の基準の方が重要になるという点は、同意です。苦痛に慣れて苦痛と感じなくなった人というのは、継続的な暴力の結果、「一般人」として持っているはずの感覚がゆがめられてしまったわけですよね。その人の感覚を、暴力の普遍的な基準としては使うことは難しい。


 となると、外部観察者は「一般人」のあるべき状態を基準に考え、強制力によってそれが損なわれる時、その強制力は暴力と定義できる、ということが言えるでしょうか。


 そうなると、あるべき一般人の姿って何だろうというのが気になります。「自分を守る」とか「法秩序を維持する」とか、そういう話も詰まるところ、「あるべき人間」の姿を損なわないようにするという目的に行き着くような気がします。あるべき姿の中身が納得のいくものであることは、強制力も許容できる(暴力にならない)条件の一つだと思います。


あるべき人間の姿について、

 西洋の人権体系(日本もこの体系を採用していると思いますが)ではどんなものを考えているのか?

 その内容を誰が決めるのか?

 その内容は普遍的なものなのか?


あたりで質問がまとめられますか。

次回あたり、個別の議論に突き進もうかと考えています。



2.強制力の程度


 書いていて思ったのですが、強制力を発揮するにしても、その程度は問題になるかもしれません。窃盗犯を一時的に拘留するのは納得いきますが、「犯罪をおかしたから死刑」といわれたら暴力的だと私は思います。

 強制力の正当化根拠には、守るべき人間の姿と共に、その規模というか程度というか、そういったものにも規定されるような気がします。

そろそろ話題が本題に近づいているような気がしますが,暴力が正当化されるのはどのような問題なのかというのは,非常に難しく興味深い話題であると思います。

先に,せっかくなので,既に問題提起のあるもう一つの問題,すなわち暴力と苦痛という問題について少し言及しておくと,暴力の受け手という観点を入れると,確かに,苦痛を感じる能力があって,はじめて暴力の受領者になれるのかということが問題になりそうです。では,物に対する暴力は存在し得ないのか。物を破壊することによって生じる誰かの精神的苦痛があってはじめて暴力となるのか,という問題を論じなくてはならないと思います。

nekoさんの挙げている例でいえば,暴力的なものを日常的に受けている場合,すなわちそれが特に苦痛で仮にないとしても,それは暴力になるのであるとすると,それはなぜであろうかということです。また,ethikさんの挙げている猪木や医者の治療行為の場合,それが暴力と評価されないのか,それは暴力だけれども,「許された暴力」なのかという問題を議論しないといけないように思います。

例えば,医者の治療行為ですが,結果的に治療された場合であれば,患者に苦痛を与えても,それは何か正当化されそうな気がします。でも,手術に失敗したら…それはどうなるでしょうか。同意というだけでは説明しきれない問題があるように思います。

話はそれますが,一般的には苦痛を伴うものを暴力と呼ぶことは用語法の一般的な理解としては通用性を有したものであると考えられます。しかしながら,その場合の苦痛の主体は常に想像上の「一般人」が念頭に置かれるのではないでしょうか。殴っているのにたまたまマゾヒズム的傾向の持ち主で,それで喜んだとしても,殴っていることが暴力にならないということにはならないように思いますので。

そうすると,許される暴力,すなわち何らかの理由で正当化される暴力についてはやはりそれなりの正当化根拠がある必要があるように思います。そして,苦痛という暴力の受領者の視点はその場合にはほとんど捨象されて,むしろ外部の観察者(ここも争点)がそれを正当化できると考えるのかという視点の方が有用な気がします。

ということで,別に好きでもないですが,暴力というとついつい引き合いに出したくなるのが,刑法理論というところなので,少しだけ紹介させて頂くと,暴力が正当化される場合というのは,刑法ではおおむね次の場合に限定しています。

1 被害者の同意がある場合(常にではない)
2 正当防衛
3 緊急避難
4 正当行為

被害者の同意がある場合というのは,猪木のケースで,殴られて嬉しいという場合が典型です。あとは,悪いことをしたから殴ってくれと言って殴られたりとか。真意から暴力に同意している場合には,基本的にそれは苦痛を与えないので。なお,念のために言っておくと,ここでいう苦痛というのは,「痛い」ではなく,その人の効用を害するものを意図しています。猪木に殴られたら痛いのですが,嬉しさがそれを上回るという意味で苦痛ではにという風に考えています。

まあ,どのような場合に同意があると言えるのかについては議論がありますし,常にではないというのは,同意があっても許されない行為があって,「殺してくれ」と言っている人を殺したら同意殺人という罪に問われるので,同意は万能ではないということです。

次,正当防衛は,襲われて身を守るための行動については許すというものです。なぜ正当防衛が許されるのかということは,色々な説明が試みられていますが,代表的な説明としては,国家に助けを求められない場合だから,とか,身を守るための暴力は法秩序を守ることになるから,だとか色々な説明がなされます。

緊急避難は身を守るために襲っている人以外の第三者の権利を侵害する場合です。議論の方向性は正当防衛と同じです。

最後に,正当行為ですが,これは,まさに正当化された暴力ということです。同意や正当防衛・緊急避難は何となくわかるのですが,正当行為というのは,もろに暴力の正当化根拠が問題になります。具体例としては,前に指摘した,警察官の逮捕行為とかです。

ここでは,何となく正当化されればいいというのではなく,本来は徹底的に吟味された正当化根拠が必要になります。そして,この場合に暴力を正当化するのは概して,「法律」などの民主主義という機構を通じて設定された規範だったりするのですが,つまり何が「許された暴力」なのかという点については,民主主義というぬえのような化け物を検討しなくてはならないというやっかいなところに行き当たるのではないかと思います。

ということで,またもや戦線を拡大しておいてとりあえず問題提起としておきます。

nekoです。ご両人の記事、勉強になります。


読んでいて思った点を2つ書きます。


1.暴力は苦痛を伴うか?

 これまでの議論で1つポイントになるのは、暴力を暴力と定義するのは暴力を行う主体と受け手のどちらかと言うと、受け手が決めるようだという点だと思います。病気や精神的苦痛に苦しむ、痛い目にあって苦しむ、いずれにしろ、「苦しい!」と声を上げることが暴力の要件となるか?という点です。


 ところが、この基準については疑問が投げかけられるかな、と思っています。


 苦しいということを基準にする時、その苦しさを決めるのが受け手個人だとすると、苦しいものを苦しいと感じてない人の場合はどうなるのかが気になります。例えば、いじめられている人がいじめられ慣れてしまった至極みじめな状態にある場合を考えます。おそらく、その人に苦しいかと聞いても「別に普通だし」という返事しか返ってこない。この時、彼は暴力を受けていないと言い切れるでしょうか?


2.「正しさ」は誰が決めるか?
 もう一つの基準はやはり、行為を行う上での「正しさ」だと思います。ethikさんが使っている概念はその辺適切だと思います。「強制力」の中で正しくないものを「暴力」と呼ぶ。chaosさんの言う、「反国家主義者」がことさらに国家権力の強制を暴力というのも、彼らが国家=正しくないものと見なしているから国家がやる強制行為=暴力に他ならない。

 ここで見えてくるのは、その正しさを判断するのは詰まるところ強制行為を観察した人その人ということになります。1の事例でも、結局「それは暴力だろ?」と考えるのは、事例を観察した人(この場合は私)の判断が入ってきてしまうからでしょう。


 強制行為の受け手が暴力を決めるというよりは、強制行為の観察者の主観に従って強制行為が暴力か否かが決まってくる。暴力の定義というのは、「ある観察者がその人の中の倫理に反すると判断した強制行為」くらいに定義ができるかなと提案してみます。倫理とは正しいとされる規範の体系ぐらいの意味で使っています。


 ここから問題になるのは、既にお二方が話題に踏み込んでいるような、観察者が依拠する正しさの中身についてだと思います。我々はどのようなものを正しさの根拠として考えているのか。それとも正しさに対する一般的な説明を施すこと自体、絶対的価値観の押し付けである「暴力的」な言説なのか、その辺が問題にできそうかと思います。

前回の問題提起を受けて、考えていくことにする。

暴力の定義の問題と、「正しい暴力」を考えて良いのかという問題とは表裏一体であり、両者を切り離すことはできない。


まず、これまでに挙げられた事例を手掛かりに、暴力の定義をまとめなおすと、さしあたり、

①相手の意思に反する物理的破壊や肉体的・精神的苦痛を故意に与え、

②法や規範(掟・道徳)を侵犯する行為、

とすることができるだろう。

①について。猪木の張り手を喰らったヒロシ君は、自らそれを望んだのであるから、脳震盪を起こし顔が腫れたとしても、暴力をこうむったとはいえない(同様に、お笑いのツッコミがボケの頭をはたくのも、暴力ではない)。また注射や手術等の医療行為も、患者の同意の上で行われるなら、いかに苦痛を伴うとしても暴力とはみなされない。要するに、肉体的苦痛や損傷を与えることが直ちに暴力となるわけではない。むしろ、肉体的苦痛に付随する精神的苦痛をより重視するならば、シカトされたユウコさんはタカシ君に殴られたヒロシ君と同じく暴力の被害者である、と考えることも可能になる。

②について。警察や司法が行使する力は、通常は暴力ではなく「実力」や「強制力」と呼ばれる。類似の例を

挙げれば、教師が行使する体罰は、暴力ではなく「教育」や「矯正」だとしてしばしば正当化される(体罰そのものの是非をここで論じているのではない。念のため)。これらの力や体罰を合法化・正当するのは、おそらく以下のようなロジックであろう。すなわち、「法や規範を侵犯したのは相手(犯罪者や生徒)の側であって、侵犯された状態を元に戻すために警察・司法・教師は力を行使するのだから、その力自体はたとえ破壊や苦痛ををもたらすとしても、不正なものではない」というロジックである。


以上を踏まえて次に、「正しい暴力」の問題にも若干立ち入っておきたい。

「正しい(良い)暴力」という言葉に対して、多くの人が違和感を覚えるのは、「暴力」の概念そのものが価値中立的ではないからである。日常的な言語感覚からすれば、暴力は悪いものに決まっており、「正しい暴力」や「正義の戦争」等というのは、あたかも「四角い三角」のような形容矛盾であろう。もっとも、こうした無意識な「暴力=悪」という前提(定義)には、表意文字(漢字)を用いる日本語特有の語感も関係しているものと思われる(「暴」という字の喚起するおどろおどろしいイメージ!)。西洋語においては事情は異なるのだが(暴力に該当する英語・フランス語はviolence、ドイツ語はGewalt)、語義的な問題は後に改めて論ずることとして、今回はいったんここで稿を閉じておく。

暴力という御題で当面は話を進めるとのことなので,導入めいたことを。

まず,暴力の定義から考えてみる。

暴力を最も単純に定義しようとすると,暴力とは有形力の行使ということになる(刑法の暴行の定義を参照)。もっとも,ユウコさんの事例のように無視されるということはどうするのかということですが,これも暴力に入れるのかはよくわからない(ちなみに,刑法理論上では,無視することは暴行罪の暴行ではないが,例えばいたずら電話をしてノイローゼにすると傷害罪になる)。

次に問題となるのが,暴力には「正しい暴力」と「正しくない暴力」があるのかということである。例えば,戦争で人を殺すのは究極的な暴力であるが,時々「正義のための戦争」ということで,何やら許される暴力があるように語られることがある。一人殺すと殺人者,十人殺すと大殺人者,一万人殺すと国民的英雄というところである。

戦争に限られないが,合法的な暴力というのもある。例えば,警察官が犯罪者を逮捕するのは一つの暴力である。裁判で刑務所に放り込むのも暴力であるといえば暴力である。しかし,これらは法律で許されているので,一般的には暴力であると考えられていない(半国家権力的思想の持ち主を除く)。なぜか。

というところで,暴力の定義と正しい暴力ということを考えていいのかということはそれ自体が大きなテーマと思われるがいかがでしょうか。

とりあえず,導入的問題提起まで。


このブログの栄えある第一回目のテーマは、「暴力」。

先日、都内某名所を散歩した読書会メンバーの一部が、考えたテーマだ。いきなりコワモテなテーマを選んだもんだ。でも、暴力はいかなる人間活動の場面にも常に顔を出す問題だ。


暴力はいけない、暴力反対、そんなもっともな言葉はたくさん聞くけど、暴力は消えない。突き放そうとしても人間につきまとう暴力というシロモノは一体何だろうか?


気に食わないという理由で同じクラスのヒロシ君を殴ったタカシ君。タカシ君のやったことは暴力?

タカシ君に報復してパンチを一発見舞ったヒロシ君。彼のやったことは正当防衛として許される暴力?

アントニオ猪木ファンのヒロシ君。機会あって猪木からタカシ君より百倍強力な張り手を食らった。

もちろんヒロシ君は感激している。猪木のやったことは暴力?

ヒロシ君の隣の席のユウコさんは、同じクラスの女の子から「眼鏡がダサイ」という理由でシカトされてる。

ユウコさんは別に肉体的苦痛を与えられているわけじゃないから、ユウコさんは暴力に苦しんでないと言える?


暴力の主語となるのはヒロシやタカシといった人間個人に限ったものではない。例えば、暴力主体として頻繁に議論の対象となるのは国家だ。ヒロシの報復が正当なのかについては、国家が「正しいもののために戦う」こと、すなわち正戦論というテーマで延々議論されてきたものに通ずる。当然このテーマは「何が正しいのか」という法や規範の問題、規範共有の可能性(コミュニタリアンの扱いとか)、その手段(コンセンサスとか民主主義とか)、「正しいこと」の実行可能性(権威とか権力とか)など、隣接する問題関心に広がっていく可能性を持つ。


こんな様々な議論の広がりを持つ暴力について、皆様のお知恵を拝借しながら、考えてみたいと思うのです。

都内某所のカフェに集った読書会メンバーが?年ぶりに集結。

年取って身が固まるどころか、より一層その存在が不確実さを増しているメンバー達。

そんな我々のカオスな脳内から発する思考を書きつづる場がこのブログだ。

混沌とした思考を積み上げていくと、一体何ができあがるんだろう?
このブログの将来の姿がちょっと楽しみだ。

メンバーの皆さん、どんどん書き込みましょう。
記事を読んで意見が沸いてきた皆さん、コメントお願い致します。