アマゾンで、先日買った本のページを開いて見ていると、『この商品を購入した人は、こんな商品も購入しています』的な文言で他の本を紹介されていました。

ま、商売ですからね~。

 

そこで紹介されている本を1冊クリック。

あらすじのようなものを目で追うと、購買意欲を削がれるような内容がほとんど。

ま、松井久子氏の『疼くひと』を買ったので、内容的にはその方向性なのかもしれません。

でも、ちょっと、というかずいぶんと違います。

 

読み終えて、そこはかとなく漂う切なさと愛しさのようなものを感じました。

その世界観に入り込むだけの要素を、自分自身が持ち合わせていたからだと思います。

それは、『博士が愛した数式』を思い起こさせるに十分な匂いでした。

 

昨日、曖昧さのようなものは、黄昏に似ているのかもしれない、ということをブログに書きました。

辺境的な私の考えですが……。

ひょっとして、誰もが心の奥底で、どちらともつかない状況や状態、つまり、不安や葛藤、信頼と期待のような感情的な側面を恍惚として捉え、秘かに愉しんでいるのかもしれません。

 

痛いとくすぐったいの中間が、おそらく快感として甘美な痺れをもたらしてくれます。

昼とも夜ともつかない時分――黄昏は多くの意味合いを含んでいます。

生徒会長や部長をしていた人でさえ、悪意を孕んだ気持ちを心のどこかに持っているもの。

 

 

人情の機微を奥行きを持って表現する小説と妄想と願望を官能的に表現する小説。

 

そこには、『好み』という趣味嗜好という敷居があるので、どちらの暖簾をくぐるかはその人次第です。

経年による知識や経験によって、ある程度の変化はあるものの……。

苦学の末政治家として大成した人物でさえ、拒むことのできない深い欲の淵に陥ってしまうことも……。

 

 

 

そう思うと、『これを買った人は、これも買っています』と紹介されたところで、それが自分の好みに合うモノかどうかは一概には言えませんね。

 

よく『あの人は、いい人ですよ』なんて言葉も耳にしますが、これも眉唾モノです。

その人にとっては『いい人』かもしれませんが、自分にとってはそうでないこともしばしば……。

 

ま、それが世の中ですね。

 

 

友達と恋人の狭間の気持ち。

浜田省吾の歌に、そんなのがありましたね。

『彼女はブルー』。

気持ちはわかるのですが、私なら、やっぱり伝えたいですね。

好きだってことを。

聴いていて、面映い気持ちにさせてくれる曲です。

自分がこしらえた浜田省吾のベスト盤には、この曲も入っています。

フフフ……。