美しき森の家(九話) | 潤 文章です、ハイ。

潤 文章です、ハイ。

俺のペンネーム。ジュン・フミアキである。

 

美しき森の家(九話)

そして翌朝早く。

森が白み、明るくなる頃。兵志郎はまだ床にいて、家
の奥の妙な気配を感じていた。旅支度のようである。
もしや律が・・とは思ったのだが、ならばなおさら寝
たふりでいるがいいと考えた。目覚めたときには律が
いない。その方が皆は気が楽だろうと。
そしてしばらく。家を出る気配を悟って兵志郎は起き
抜けた。思った通り、律がいない。桔梗に連れられて
出たと言う。女七人の家から二人抜けて、これで五人。

起き抜けた兵志郎だが、今朝はあいにく庭先の土が雨
でぬかるみ剣の稽古にならない。森が白む頃に雨は上
がり、けれども雲は垂れ込めて、濡れた森からゆらゆ
らと立ち昇る湿気は重く、山の斜面を這うように山か
ら谷へと吹き下ろし、わずかだったが北風のようにな
っている。

そんなときだ。庭先の木々の陰から猿の太郎が現れて、
縁側にいた兵志郎には目もくれず、家の中へと駆け上
がる。『キィィーッ』と鋭く啼いた。
様子がおかしい。兵志郎でも気づくこと。
紗雪が指笛を吹きながら広縁へとやってくる。
「旦那」
「うむ、何かあったようだな」
紗雪の号令を聞きつけて女四人が駆け寄った。紗雪は
言う。
「皆は装束を。旦那も着替えて。それから翼、旦那に
剣を」
「わかった、すぐに」
踵を返す翼。それから紗雪は指先ほどの黒く大きな丸
薬を兵志郎に手渡した。
「いますぐ飲んで。解毒薬です」
「解毒薬?」
「いいから飲んで。でないと敵とともに倒れてしまう」

女四人が奥へと消えて、残された紗雪だけが花柄の浴
衣のような薄い着物。
と、そこへ、猿を使うと言う亜矢が、ツギハギ迷彩の
忍び装束に身を包んで家へと駆け寄った。森に融け込
む色と柄。
紗雪は問うた。
「どうした?」
「麓からつなぎが。妙な侍二人がやってくる。それと
その後ろ、見かけない連中がぞろぞろと。その数およ
そ三十ほどか。皆が浪人姿だが、そっちはおそらく忍
びかと」
紗雪はうなずく。
「三十とは多いね」
亜矢が言った。
「道筋に十、谷から二十、二手に散ったということら
しい」
紗雪はとっさに風向きをうかがって、そして口許を歪
めて笑った。

と、亜矢より少し遅れて大きな猿がさらに二頭。次郎
そして三郎。太郎から順に名を付けたということで。
紗雪は言った。
「先んじて二人ということは話が先。油断させるつも
りだろうさ。亜矢は森へ。猿掛け(ましらがけ)の支
度もね」
「もとより承知。では手筈どおりということで」
猿三頭を連れた亜矢は森に潜む。家にいる女四人は忍
び装束に身を包んで迎え撃つ。それが霞般若の迎撃法
か。まずは紗雪が使者と話し・・ということだが、話
だけなら三十もの数を連れては来ない。
紗雪は言った。
「旦那は奥へ。手出しするは最後にして。我らには我
らの戦い方があるゆえね」
「うむ、そうしよう」
兵志郎は浅くうなずくと紗雪の肩に手を置いて奥へと
引っ込む。
紗雪のほかの四人は柿茶色の忍び装束に身を包み、手
にはそれぞれ弓、剣、あるいは槍を持つ者、さらに吹
き矢といった武器を持つ。
そしてその中の二人が家の横手に潜み出て、あるもの
の支度に取りかかる。石組みの中に火を起こし、大き
な鉄鍋を上に置く。

ほどなくして武士が二人、現代の林道を狭めたような
道筋からこちらめがけて歩み寄る。紗雪は単身、広縁
に腰掛けて、ちょっと笑って出迎えた。
武士が二人、どちらも若い・・のだが、一方は紋のな
い紺色の着流し姿で、こちらは明らかにどこぞの藩士。
月代が手入れされていた。
しかるにもう一方は、髪はぼさぼさ、兵志郎とそっく
り同じ浪人姿で目つきが鋭い。薄汚れた鼠灰の着物が
いかにも着古してツギハギだらけ。下手な芝居だと紗
雪は感じた。この二人は忍びではない。化けるにせよ
下手すぎる。
紗雪は言った。
「あら、これは御武家様がお二人で。このようなとこ
ろへ何用でございますや?」
キリリとした藩士が言った。
「我らの素性まではご容赦を。忍び、霞般若の住処と
知って訪ねてまいった。まずは聞かれよ」

紗雪はちょっと大袈裟に眉を上げてうなずいた。
男が言った。
「会津公よりのお役目なれど、ここで退かれよ。これ
は水戸様よりのお達しでもあってな。駿河屋は泳がせ
よ。そう逐一葬っておってはトカゲの尻尾。黒幕をし
かと見極め、どうするかはそれからよと水戸様は申さ
れた。先立っても駿河屋を殺ろうとしたくノ一が死ん
でおるではないか。殺しをやめさせようとしたまでで、
可哀想に口まで塞ぐことはなかったものを・・とも申
されておるのだぞ」
紗雪は笑った。見え透いた猿芝居。御三家たる水戸様
が、くノ一ごときに心を砕くわけがない。
紗雪は言う。
「それにしてもおかしな話ですわね。たいだい麓の旅
籠からここまで一刻半(=三時間)はかかるはず。も
しや暗いうちにお出になられたか? さらに一つ申さ
ば、水戸様ほどのお方が、はぐれ忍びを使うとも思え
ませぬが」

このとき兵志郎は物陰から男二人の人相をうかがって
愕然としていた。危惧したように、どうやら小田原藩
が一枚噛んでいたようだから。
そして相手が相手。いかに紗雪ができようと太刀打ち
できるはずがない。兵志郎は、そのとき物陰で制止し
た若葉を振り切り、歩み出た。
「田野原(たのはら)よ、芝居もそこまでだ」
薄汚れた浪人姿の男が目を見張った。
「高桑・・貴様がどうして」
兵志郎はにやりと笑い、紗雪の横をすり抜けて、すり
抜けざまに紗雪に言った。
「下がってろ、ここは俺の出番だ。こやつは田野原玄
蔵(げんぞう)と言って、小田原藩、番頭(ばんがし
ら)蒔田徳ノ進(まきた・とくのしん)が配下」
紗雪にそこまで言うと、兵志郎は裸足で庭先に降り立
って田野原ら二人と対峙した。

番頭とは、つまり藩内にあって悪事を取り締まる警察
のようなもの。蒔田なにがしはその長であり、田野原
は配下。
もう一人の若造は、兵志郎の知らぬ者ではあったが、
それもおそらく蒔田の手下であったのだろう。
兵志郎は言った。
「これでつながった。蒔田は確か肥後の出だったな。
稲葉正利めが紀州にでも泣きついたか」
田野原は、さらに眼光鋭く、腰の物に手をかけた。
そしてそれを合図のように、もう一人の若造までが抜
刀しながら呼び子(=笛)を吹く。背後に散った皆の
者に、かかれの合図だ。
紗雪は広縁に退いて立ち、奥から姿を見せた若葉から
剣を受け取り、仁王立ち。若葉は毒矢をつがえた弓を
引く。

田野原は兵志郎より少し歳上、藩でも指折りの使い手
だった。流派は同じく一刀流。だがしかし兵志郎の剣
は流派を越えた独自のもの。
一刀流らしい凜とした立ち姿の田野原に対し、兵志郎
は右手に大刀、左手に小刀、どちらもを抜刀し、剣先
をだらりと下げた自然体。
紗雪も若葉も息をのんで見つめている。はじめて見る
剣構え。兵志郎の後ろ姿から陽炎が立ち昇っているよ
うだった。静かだが、すさまじいまでの闘気!
兵志郎は言う。
「関所番とは何のためのお役目だったか。拙者つくづ
く愛想が尽きた。この世の最期に一つ聞きたい」
「何だ」
「このことを正則様はご存じか」
小田原藩藩主、稲葉正則である。
「ふふん、知っておれば腹を召しておいでであろう」
兵志郎は浅いため息。
「そうか、やはりご存じなかったか。せめてもの慰め
よ。来いや田野原! 叩き斬ってくれる!」
「おおぅ!」

一刀流、中段の突き突き、切り替えして袈裟斬りの斬
り降ろし。田野原、速い!
しかし兵志郎の大刀が蹴散らして、左手の小刀で突き
込むも、敵も苦もなく交わしきり、突くと見せかけ、
踏み込みざまの抜き胴。それさえも兵志郎は読み切っ
て左の小刀で受け流し、さらに右の大刀で相手の太刀
筋を跳ね上げておき、小刀を切り替えして胴を浅く一
閃。勝負あり!
「うっ」
薄汚れた着物の腹に横一筋の剣の切り裂き。
「これまでよ田野原、死ねぇい、セイヤァーッ!」
腹を浅く斬られて動きが止まり、刹那、切り替えされ
た横振りの大刀がそっ首を斬り飛ばす。
噴き上がる血飛沫! 首のない胴体が朽ち木のごとく
倒れていった。
強い。紗雪も若葉も鳥肌の立つ思い。これほどの剣を
はじめて見る二人であった。

そして、その同じ頃、家の横で翼が動く。風呂と納屋
の間に置かれた大きな鉄鍋。燃えさかる火で炙り、夾
竹桃の生葉、それにいくつかの毒草を合わせたものを
火で炙り、にじみ出るような白い煙が、雨の後の重い
空気に流されて斜面を這うがごとく谷下へと流れ下る。
これぞ毒の霞般若。北風のときにだけ使える猛毒の煙
が、沢から上をめがけて襲い来る忍びどもを、霧がく
るむように包みこんでいったのだった。
「いかん毒だ! 急げぃ! 駆け上がるんだ!」
いかに猛毒であっても効くには時がかかるもの。忍び
の脚で坂を登るが、姿が見えると次には毒の弓矢が襲
いかかる。矢を避けようと木の陰に踏み込むと、そこ
には毒を塗った竹針が。
矢をくらった断末魔の悲鳴、毒にもがく濁った絶叫。
家まで少しという距離になり、いよいよ毒が効きはじ
め、バタバタ倒れてもがく男ども。

その頃また家の前では。
道筋を駆け上がる忍びが十数名。亜矢だけが使える忍
びの技が男どもを待ち構える。
猿掛け(ましらがけ)だ。太郎、次郎、三郎、三頭の
猿の手に刃渡り十センチほどの刀の小柄(こづか=ナ
イフ)。亜矢が手にする竹筒から黒い毒を刃に塗って、
猿三頭が右へ、左へ、草の中へ、木の上へと自由自在
に駆け回り、男どもに襲いかかる。
わずかでも刃先が届けば猛毒が体に回る。猿は俊敏。
男どもの動きを見切り、太刀筋などかいくぐって脛を
斬り、腕を斬り、背中を切り裂き、猿から逃れようと
草むらに踏み込むと、そこにもまた、そこらじゅうに
猛毒の竹針が。
加えてさらに、家に寄れば屋根裏からの女たちの弓矢
が届く。
悲鳴! 絶叫! 断末魔!
バタバタ倒れ、這ってでも剣を振り回そうとするのだ
が、この毒は狩りのための痺れ薬ではない猛毒。喉を
かきむしり、血反吐を吐いて、痙攣して絶命する。
霞般若とは森の妖怪。女は怖い! うん怖い。

さて庭先。手練れの田野原を仕留められ、残る若造で
は兵志郎の敵ではない。怖じ気づき、剣を捨てて膝を
つく。
「旦那、待って」
花柄の薄い着物は女らしさをカタチで示す。紗雪であ
った。紗雪は、やや短く反りのない忍びの直刀を鞘か
ら抜くと、ひざまづく藩士の前に立ちはだかった。
兵志郎は大小それぞれ、ヒュンと一振りして血を飛ば
し、鞘に収めて見守った。
紗雪は詰問。
「武器は瀬取りだね?」
「それもあるが、それだけじゃない。船の下」
「船の下?」
「丸太をくりぬいた筒に重しをつけて船底に縄でくく
る」
いまで言う水中ハウジング。カプセルのようなもの。
「それと一つ、梓を殺った者はこの中にいるんだろう
ね?」
「いる。忍びだ。甲賀のはぐれ者。元は公儀の忍びだ
ったが、じつは駿府方でな」
公儀の忍びであったなら霞般若の動きを知っていても
スジが通る。
すがるような目で見上げる若い藩士。紗雪は静かに言
った。
「だとしたら、いまごろはお陀仏だろうね。おまえさ
んも仇の一人。梓の無念を思い知れ!」
横振りの白刃一閃、若い男のそっ首が胴から離れて転
がった。血飛沫を浴びる紗雪。淡い花柄が真っ赤な花
柄に変化した。やっぱ女は恐ろしい。くわばらくわば
ら。

すべてが終わり森は静寂。
紗雪は兵志郎へと寂しげな横目をなげて、そして言っ
た。
「あたしは頭(かしら)、こうするしかないんだよ」