美しき森の家(七話)
「森は眺めるに美しく、踏み込む者に厳しいものさ」
それでも深みに立ち入るなら覚悟がいると若葉は言い
たい。しかしそれは承知の上。
庭に向く横に長い八畳間とはしっかりした板壁で仕切
られていて、それは剣を通さない忍びの防御。それよ
り奥は兵志郎がはじめて立ち入る部屋だった。
うねりの激しい山の斜面を拓いた敷地。この家は横に
長く、ある部分だけが奥に深い、迷路の一部のような
造り。とは言え、いわゆる忍び屋敷のようなからくり
はないものと思われた。土のすぐ下が岩盤であり地下
は造れないということか。
その部屋は六畳ほどなのだが、うち四畳分に畳が敷か
れ、残りの二畳分ほどが三角形に先が絞られて、そこ
は板の間。床の間というほどではなかったが、板の間
には違い棚が造り付けられていた。
霞般若の頭目、紗雪の部屋か。仄かだが女が纏う香木
の匂いが漂っていた。
話があると兵志郎は紗雪そして若葉の二人と向き合っ
た。この家に女たちは七人。残り五人は隣室で息を潜
めて聞いていたに違いない。
「前にも話したことではあるが、駿府あたりの何者か
が伊賀者を雇ったという話」
兵志郎がそこまで言うと紗雪はわずかに口許を緩ませ
て笑み、そして言った。
「おかしな話ですわね」
なるほど、端から疑わしいと思っていたか・・と、兵
志郎は気づかされる。
「そういうことだな。俺は己が嫌になったよ。上役に
操られるがまま、ろくに考えようともしなかった。あ
れから、かれこれ二月ほども経つというのに動きはな
い」
若葉が笑った。
「お役人様とはそんなもの。旦那はとりわけ世間知ら
ず」
兵志郎は、うんうんとうなずきながら言った。
「そこで、話はそこからだ。小田原藩の当代藩主、稲
葉正則は春日局の嫡孫であり、その父たる初代藩主、
稲葉正勝は春日局の嫡子。と、そこまではいいのだが、
その正勝の兄弟、稲葉正利は、幕命によって忠長公に
付けられた家臣であった。しかし忠長公が改易となっ
たとき連座として処分され、いまは肥後国へと実質の
流刑となっておる。江戸の指図で駿府に置かれたもの
を、これは不当な処分であっただろう」
紗雪は静かに聞いていた。どこまでも純なお方。言い
たいことは見通せている。
こういうことだ。
といった不当な処分を受けて公儀に恨みを持つ稲葉正
利とは、つまり当代小田原藩主である稲葉正則からす
れば父の兄弟、すなわち叔父にあたり、公儀の意思で
動く霞般若とは敵対関係。
よって正利派の圧力で小田原藩が偽りの話を流布して
霞般若を止めたのではないかと言いたいわけだ。
藩主たる正則が知らずとも家臣の中には先代の兄弟た
る正利に味方する者もいるだろうということだ。
春日局は、そうした者どもの母、あるいは祖母であり、
その指図で動く霞般若とは、ますます複雑な関係とな
るわけだ。
若葉は言った。
「伊賀も甲賀も同穴の蛆虫ども。我らのことなどとう
に見通しているんだよ。江戸城など伏魔殿。もっと言
うなら尾張も紀州も伏魔殿。我らに信ずる者などあり
ゃしない」
さもあろう。兵志郎はちょっとうなずいた。
「さようだな。ゆえに俺は己が情けない。聞きかじっ
た話をそなたらにしていい気になっていた」
若葉は笑った。剣の腕がどれほどであろうと、こやつ
は子供か。
「それで? 何が言いたいんだい? 藩内に心当たり
でもあるのかい?」
小馬鹿にするように笑いながら言う若葉を兵志郎は見
据えた。
「二つ訊きたい。まずは梓というくノ一だが、沼津で
何を探っていたのか? 何者をと言うべきかも知れん
がな」
若葉は横目に紗雪をうかがう。深みを話していいもの
か。
兵志郎はさらに言った。
「藩の勘定方に友がいるが、解せぬ金が動いていると、
チラと話したこともあり。そのときは聞き流す程度の
話ではあったのだが」
若葉は問う。
「それは出かい? 入りかい?」
「出であれば目を光らせる。内情は苦しいらしく金の
入りは歓迎なのでね」
若葉の返答を待たず、次には紗雪に問うた。
「そもそも、そなたら、いまさら誰の指図で動くのか。
春日局はとうに亡く、その遺志を継ぐとなると、その
者も只者であるはずがないゆえな」
兵志郎はこう言いたい。
春日局ほどの女帝の遺志を継ぐとなれば徳川家の中枢
にいる人物。しかるに、その意思で動く霞般若を止め
なければならない理由ができた。
肥後に流刑となった稲葉正利の一派が動いている。こ
のまま探られれば小田原藩まで危うくなる。そこで偽
の話を流布して霞般若を止めた。そう考えるとスジは
通る。
紗雪が言った。
「それを聞いてどうなさるおつもりで? 脱藩なされ
た旦那には無関係かと」
兵志郎は応じた。
「無論そのへん立ち入る話ではないのだが、そのため
に梓という女が犠牲となり、そこな若葉に非情な役目
がまわった。都合よく使い、不都合が生じれば捨て去
って素知らぬ顔。この先そなたらが動くようなら、こ
こへも攻め込んでくるであろう。事情を知らぬままで
は戦えぬ。俺はもう森へと深く踏み込んだのだ」
紗雪は若葉と視線を交わして微笑み合った。この男、
いかにも青く、どこまでも純な奴。
若葉はからかう。
「惚れた女を守るためかい? ふふんっ、いい男だね、
あんたってお人は」
「紗雪だけではない、おまえも、翼や律も、女たち皆
もだ」
と、兵志郎は言い切った。
女二人は呆れて絶句。紗雪が言った。
「虚けですよ旦那は。あたしら霞般若、忍びの掟に生
きる者。好きこのんで飛び込んでくるなんて」
嬉しさを噛むように微笑みながら紗雪は立ち上がり、
板の間の違い棚に置かれてあった白桐の箱を手にして
戻った。紫草の紐を解き、黒毛氈にくるまれた器を手
に取った。
茶器のようだ。黒字に鮮やかな朱色を塗った、それは
漆器。金箔をあしらって鳥がはばたく絵柄の見事なも
の。兵志郎は注視する。
紗雪は言った。
「これは頂き物なんですが、おわかりになりますや?」
兵志郎は意味が解せず首を振った。
「会津塗のお椀です」
「ほう、会津塗?」
「これ以上は申せませぬ、お察しあれ」
会津塗・・兵志郎はハッとした。ハッとして震えがく
る思いがした。
陸奥会津藩二十三万石の藩主、保科正之(ほしな・ま
さゆき)は、徳川二代将軍、秀忠のご落胤(らくいん)、
つまりは当代将軍家光の腹違いの弟ということになる
わけだ。
家光は父秀忠亡き後、自分に腹違いの弟がいることを
知り、ことのほか可愛がり、幕政においても重用した。
その上で、やがて陸奥会津藩二十三万石を与えて大大
名にのし上げたということだ。
この後、正之は、家光亡き後の四代将軍家綱にも仕え、
徳川家を支え続けた。まさしく腹心中の腹心。家光の
乳母であった春日局が後を託すには、これ以上の人物
はいないといってもよかっただろう。
しかしそれだけに敵もまた多いはず。
若葉は笑いながら言った。
「ふふん、だから言ったろ、江戸城など伏魔殿さ。頭
ひとつ抜きん出れば、それをよしとしない連中だって
いるってこと。忠長派に通じる者もまたしかり。そし
てそれは尾張にも紀州にもいる。誰もが敵とも知れぬ
輩ばかり。だから我らは仲間であってもしくじれば口
を封じる。伊賀も甲賀も我らには一目置いてる。しか
るに甲賀が手を出した。いったいどいつの指図なのか」
兵志郎は問うた。
「甲賀だと? 伊賀ではなく甲賀だと言うか?」
若葉はうなずく。
「まったく何もわかっちゃないね。おそらくははぐれ
甲賀。のみならずだよ、はぐれ伊賀、はぐれ根来と、
言い出せばキリがない。忍びと言ってもね旦那、世の
中には数え切れない流派ありだよ。喰えなくなった忍
び同士がくっついて悪と手を結ぶって寸法さ」
兵志郎には声もなかった。
天下安寧のためとは言え、家光の武断政治は早急過ぎ
た。大名どもの力を削ぐため、わずかな落ち度で締め
上げる。下手に忍びなど置こうものなら二心ありと、
あらぬ嫌疑をかけられかねない。真っ先に捨てられる
は忍び、ということだ。