美しき森の家(五話)
その日の早朝、家の周りに蒸れるような空気が澱んで
いた。夏の南風は沢越えの吹き上げ風で森と沢の湿気
を運ぶ。逆に北風は山からの吹き下ろしで乾いている。
今日はごくわずかな南風。鬱蒼とした森を突き抜ける
ほどの力はなく、空気は澱む。
南風か北風か。この風向きに敵を迎え討つとき大きな
違いがあったのだが、このときの兵志郎には知る由も
ないことだった。
紗雪ら一党が霞般若と呼ばれるようになったのは春日
局の指図で働くようになってから。元は美濃の女たち。
戸隠忍びに迎えられて相当数が移り住み、ほどなく戸
隠一帯に根を張った。
そしてその頃の女たちは、戸隠忍びの潜み先をつくる
ため、まずは江戸を中心とする関東一円に歳嵩の女た
ちを散らし、若い女に子ができると、女子ならば山に
迎えて手元において、男子ならば方々に散った女たち
を乳母として育てていった。男の子は忍びとは無縁の
暮らしをしながら、役目を負った戸隠忍びの潜み先と
なっていく。
一方で、産まれた女児の中から素地を見極め、くノ一
として躾けていく者が選ばれる。そしていつしか春日
局の手先となり、幕府とは距離を置きたい戸隠流忍び
から切り離されて霞般若は生まれたわけだ。
蒸し蒸しとする朝である。空には薄い雲が浮いていて、
そのうち雨になりそうだった。
女たちより少し遅れて床を起き抜け、兵志郎は広縁に
座り込んで庭を見ていた。
そんなとき。
兵志郎の気配を察したわけでもないだろうに、庭の奥
側、家の裏から回り込んで、若葉と翼が二人揃って歩
み寄り、広縁に並んで座った。家の裏側には別棟とな
る納屋があり風呂もそちら。
このとき兵志郎は起き抜けで寝間着のまま。女二人は
淡い花柄に染め抜かれた浴衣のような薄い着物。この
家の暮らし向きにしては華やかな姿なのだが、そこは
年頃の女たち。役目で外に出た者が戻るときに持ち帰
るというわけだ。
兵志郎と紗雪の男女の仲を翼は薄々察していて気を許
していたようだが、若葉はそうと確信しつつ、それで
も疑心は消えていない。
と、唐突と翼が言った。
「そうだ旦那、あたし剣術を習いたいんだ」
「ほう、剣をか」
「お侍の剣とはどういうものかを知っておきたいこと
もあるけれど、我が身ぐらい守れるようになっておか
ないと」
己が剣を捨てようというときに、さてどうしたものか
と兵志郎は眉を上げて若葉を横目に。
若葉は言った。
「いいんじゃないかい。教えてやっとくれよ旦那。あ
たしらだって旦那の剣を見てみたい」
霞般若は、もともと戸隠忍びの中の毒使いであって剣
はあくまで万一のときのため。したがって相手によっ
ては太刀打ちできず、あのときの梓のように張り番を
つけておいて、しくじれば毒矢で始末をつける、とい
うことになるわけだ。
女たちは小振りの忍び弓そして毒の吹き矢は得意とし
ていた。けれども剣が使えず、そこが弱み。
兵志郎はしばし思案。しかしまあ護身という意味でも
使えるにこしたことはない。
若葉は言った。
「翼はね、形にこそなっちゃいないがスジはいいんだ。
覚えも早いと思うけどね」
「わかったわかった、木刀はあるのか?」
「もちろんあるさ。そうと決まれば翼、さっさと着替
えといで。木刀もだよ」
「うん!」
目の色を変えた翼が立ち上がって家の奥へと行こうと
すると、その背に向かって若葉は言う。
「ついでに律を連れといで」
「わかった」
律(りつ)。あのとき紗雪の号令で庭先に集まった女
たちの中で気になった娘である。後に名を知り、幾度
か話したことはあったのだが、いかにも臆病、ろくに
向き合わずに逃げてしまう弱気な娘。歳は翼よりひと
つ下の十七なのだが、まだまだ童といった感じがする。
ほどなくして、忍びが修練で着る生成りの忍び装束に
身をつつんだ翼が、同じく装束に着替えさせた律を連
れてやってくる。体つきを比べても律は小柄で線が細
い。
そして若い翼や律が稽古着に着替えて騒ぐ姿に、紗雪
と桔梗も広縁へとやってきた。
「ときに、そなたらの中でもっとも剣に通じた者は?」
兵志郎の問いに桔梗が即座に応えた。
「そりゃ、お頭だよ、決まってるだろ。お頭はね、お
侍の家に・・」
と言いかけて、ハッとしたように口をつぐむ桔梗。兵
志郎はそのときとっさに紗雪と目を合わせ、昔のこと
など気にするなと言うように、うんうんと微笑んでう
なずいた。
皆に力を認められ、ゆえに頭でいられる。それもくノ
一のありようというわけだろう。
さて、木刀を構えた翼。翼は若すぎて剣の構えになっ
てはいない。尻の引けたへっぴり腰で、しかし獲物を
狙う猫のように腰を右に左に振り立てて、覇気だけは
すさまじい。
口吻をまくり上げて牙を剥き、眼光はらんらんと輝い
て、右に左に前に後ろに素早く動き、それは天性の資
質といってもよかっただろう。
確かにスジはよさそうだ。剣は付け焼き刃でどうなる
ものでもないのだが、道場剣法でない実戦向きという
点では、まさしく戦う剣の姿。兵志郎は見ていて愉快
でたまらなかった。
娘ではなく猫そのもの。やがては女豹に変貌する素地
を持つ。
「いざ! イヤァァーッ!」
突き突き! 斬り込んでおいて、さらに突き!
受ける兵志郎の木刀とカンカン、カーンと触れ合って、
乾いたいい音を響かせた。
「おお、そうだ、動きがいい、それでいいぞ」
「はいっ! セイヤァーッ!」
カン、カン、カーンと、木刀と木刀が衝突し、しかし
もちろん相手にならず、あしらわれて、そのあげく、
横をすり抜けられて返す刀で尻を打たれる。
手加減された打ち据えだったが、バシッとくぐもる鈍
い音。
「ぎゃうっ!」
悲鳴を上げ、もんどり打って転がって、尻を撫でさす
ってもがくのだが、視線だけは敵に向けて睨みつけ、
形はどうあれ、ふたたび構えて挑みかかる。
闘争心のかたまりのような強い心。この子は強くなる
と兵志郎は確信した。
「どうした、終わりか、打ち込んで来い」
「はい! トォォーッ!」
「なんの、浅い浅い、もっと鋭く深く突け」
「はい! セェイヤァーッ!」
カンカーンと交錯する剣と剣。翼の突き込みを弾いた
刹那、兵志郎は瞬時に間合いを詰めて懐に潜り込み、
木刀を逆さに返して握りの尻で翼のみずおちを浅く抉
った。
「グエェッ」
翼は胃液を吐いてのたうち回る。息ができない。翼は
涙目。それでも木刀を構え直し、突きまた突きと攻め
かかる。
見ている若葉が紗雪に耳打ち。
「なかなかやるね、見上げたもんだよ」
「うむ、動きがいい、まるで獣だ」
と言って紗雪はちょっと眉を上げて微笑んだ。
突き突き、そして木刀を振り上げて斬り込む翼。その
木刀を受けられて、剣と剣が重なって力比べで押し切
られ、離れ際に腹を足蹴にされて後ろに吹っ飛び、し
かし翼は尻餅で着地と同時に身を丸めて背後に転がり、
勢いですくっと立って身構える。
兵志郎は木刀を降ろして言った。
「そこまで! もういいだろう」
「はい!」
「もっと手力(=握力)をつけねばな。刀は振れば重
さが増す。握りが甘くなると太刀筋が定まらず威力に
劣る。日々木刀を振り込むことだ」
翼は笑ってうなずいて一礼した。
己の昔を思い出す兵志郎。同じことを言われたものだ
し、勝てない口惜しさに泣いて挑みかかったものであ
る。
そして次なる相手は律なのだが・・。