美しき森の家(三話)
霞般若の棲む家は、標高1904メートルの戸隠山の中腹
に位置していて、背後は急傾斜の駆け上がり、前に歩
めば崖となり、崖下に沢が流れる。標高が上がって山
体が絞られてくると逃げるとき動きが制約される。中
腹ならば逃げ場はひろがる。考えられた場所に造られ
ていたのだった。
麓から家までは傾斜に沿った一本道。道と言っても現
代の林道よりも幅がなく、およそ獣道と言ってもよか
っただろう。兵志郎は、その道筋の途中で用を足そう
と森に踏み込んで毒針で傷を負ったということだ。
庭先で兵志郎を見送って、紗雪の姿がふっと消え、家
を出た紗雪は、道筋を少し下って登り山の中へ。
「亜矢かい。どうした?」
「はい、鳩が来て」
呼び出したのは、猿(ましら)の亜矢(あや)と言う
女。亜矢は紗雪よりもかなり歳嵩。着物は粗末でも美
しい女であった。山を越えて鳩が来た。忍びが用いる
伝書鳩である。
亜矢は言った。
「梓(あずさ)が沼津で敵の手に。芸者に化けはした
ものの見破られたということで」
紗雪の目色が厳しくなって、そして同時に寂しさをた
たえていた。
「始末はつけたんだね?」
「もとより。若葉が送ってやり」
「そうかい、わかったよ」
くノ一は女。しかも若く美しい。捕らえられた女がど
うなるか。いっそ送ってやるのが情というもの。
亜矢は言った。
「敵の正体は定かではないものの、どうやら甲賀のよ
うで」
「甲賀? 伊賀でなく甲賀だと?」
「そのようで。甲賀であっても江戸の手先ばかりじゃ
ない」
伊賀は銭で動くと言われ、対して甲賀は忠義で動く。
忠長も徳川家。もともとが忠長派のお抱え忍び・・も
しくは江戸の側で敵に通じる者あり・・と、解釈には
さまざまある。
亜矢は言った。
「けど頭、あの者よろしいので? 桔梗に聞きました。
伊賀者が動いたそうですが、それとて眉唾か」
紗雪は笑った。
「わかってるよ。されどいたしかたなしさ。恐ろしい
キレ者でね、何もかもを見通しておきながら、しごく
平然。むしろ味方となるやも知れぬ。それにね亜矢、
もしもの備えにぬかりなし。あたしを信じな」
「はい、そういうことなら」
紗雪は微笑む。
「まあ勘だけどね、女の勘さ。それより亜矢、一帯に
目を光らせよ。ただし下手な手出しはするな。こっち
の正体をバラすようなものだからね」
「もちろんわかっております」
「皆につなぎは?」
「とっくに鳩を放ってあり。指図あるまで動くなと」
紗雪は微笑んでうなずいた。
「ところで猿どもはどうしてる?」
「元気も元気。きゃっきゃとうるさくてかないませぬ」
「猿掛け(ましらがけ)ってことになるやも知れぬぞ」
「待ってましたてなもんでしょう。猿どもめ、うずう
ずして、いまかいまかと」
「ふふふ、わかった、もういいよ、ご苦労だったね」
「はい」
と言った刹那、猿の亜矢は緑の草間に消えていた。
それにしても猿掛けとはどういう術か。女だてらに猿
(ましら)なる異名を持つ亜矢も不気味。
表側から家に戻った紗雪。ほどなくして額に汗した兵
志郎が広縁へと歩み寄る。
「いやあ、まいったまいった、薪割りとは難しいもの
だな」
「そうですか? ふふふ、よせばいいのに」
「いやいや、これも修行でござるよ。皆々に笑われな
がらナタを振るった。剣などよりよほど爽やかだ」
紗雪は笑う。我ながらどうしたことか、とても勝てな
いと思えてしまう。
「ねえ旦那」
「うむ?」
「あたしらに男はいないのかって思いませぬか?」
「そうだな、言われればそうかも知れぬ。女だけでは
途絶えてしまう」
紗雪は、歩み寄って並んで座った兵志郎を盗み見た。
もしもあたしがくノ一でなかったら・・仄かな夢を、
ふと想う。
「あたしら、もともと美濃の武家の女たち」
兵志郎がちょっとうなずく。
「道三様の頃よりの悪しき夢・・夫や子らを戦に取ら
れて失って、女たちは美濃から飛騨にかけての山々に
逃げのびましてね。そこは薬草の宝庫だった」
「それで薬をつくったか?」
「最初はそうです。毒ではない薬をね。そうするうち
に毒草の扱いを覚えていき、高値で売れることもわか
ってきて」
「なるほど、そなたらのはじまりというわけだ?」
「そういうことです。わたくしの祖母や母もそうやっ
て哀しく生きてきた。家族というものを持ちたくない。
持ったところで、いつまた戦に取られるか。そこで旦
那、あたしらどうしたと思います? 女には血をつな
ぐ役目があり」
兵志郎は、もの悲しく語る紗雪を見つめていた。
紗雪は言った。
「年頃となると一度は山を離れ、商家であったり武家
であったり、下働きとして世にまぎれ、いっときの夢
の中で子を宿し、そして山へと戻ってくる。夫だとは
思わない。ともあれ血をつなぐ。優れた男を選ぶよう
に我が身を差し出し、そうやって生きてきた」
「哀しい話だ」
「そうですね、それはそう。子ができても男子であれ
ば手元に置かない。一族であっても母とは名乗らず、
働く手として接していく。そしてそうするうちに戸隠
忍びのくノ一と出会うこととなるのです。敵に追われ
たくノ一をかくまったのがはじまり。我ら誰一人胸を
張れない生き方の末、そのお人の導きで、くノ一の役
目を背負う道を選んだ。忍びは役目で動くもの。役目
なのだと言い聞かせ、でもだから救われた。女を苦し
く生きる我らです、そんな世が許せない。般若となっ
て一矢を報いる、それしかなかった」
「それゆえ春日局の手として動く?」
「そうです。お局様は道三様の縁者にあたり、あたし
らのこともご存じでした。美濃のために死んでいった
男たちの母や妻や子であることを。いくばくかのもの
も頂戴し、ゆえに毒を売らなくてもよくなった。この
家も頂戴したもの。よっていまでも家光様のために働
く」
兵志郎はこくりとうなずいた。
兵志郎は言う。
「そこで思うに」
「はい?」
「であるにもかかわらず翼殿のように強くある。頭が
下がる思いです。拙者ごとき藩の下っ端では上役の言
いなり。生きる意味さえ見い出せない。そしてまた、
そんな翼殿を見ておればわかる。一族の頭の器という
ものが。そなたらに出会えてよかったと思っており」
「それは本心から?」
兵志郎は深くうなずく。紗雪はせめても救われたよう
な思いがした。紗雪は浅いため息をつくと庭を見渡し
た。
「草は自らを守るために毒を持ちます」
「さようだな。そしてそれを悔やんだりはしないだろ
う」
紗雪は苦笑。
「不思議なことです。般若とまで言われる我らが素性
を明かして平気でいられる。旦那って不思議なお方」
と、そうして話していると、森の中から一頭の大きな
猿が現れた。体の大きな雄猿で、目つきが鋭い。
兵志郎は目を細めた。
「ほほう、猿が出るのか」
「出るのではなく亜矢の飼い猿、名は太郎。群れの頭
なんですよ」
「飼い猿? 亜矢というと?」
「少し離れたところにいる仲間です。この崖下に沢が
流れ、我らは時折水浴びを。そのときは亜矢でした。
裸の亜矢をじっと見つめ、手を広げて迎えた亜矢に飛
びついて胸に抱かれた。以来、亜矢を母のように慕っ
ており」
「なるほど、太郎と言うか。おい太郎、おいで」
このとき紗雪は、兵志郎よりも太郎を見つめた。おい
でと手を差し出す兵志郎。男を嫌う太郎がどうするか。
動物に偽りは通用しない。
グゥゥと喉奥で威嚇した太郎。のそのそと歩み寄って
兵志郎を一瞥したが、警戒するそぶりは見せない。し
かしまるで無視。紗雪に歩み寄って頭を撫でられ満足
げに背を向けて去っていく。
兵志郎を太郎が認めた。このことが紗雪の女心に火を
つけた。