どういうことだろうか。僕はこんなものを欲しかったわけじゃないんだけどな。
うーん。何を何処で間違えたのか、入手したのならしょうがないというか、捨てるに捨てられないから持ってるしかないのかな。悩むところだ。
バイトから帰ってきたら、時間は既に23時を越えていた。バイトで生活できるから、この日本はありがたい国だと思う。アメリカやロシアなんて国に居たら、すぐに生活が破綻してたんだろうな。行ったこと無いから分からないけれど。
バイトは、ビデオレンタルの店員だ。時給が思ってたより良かったのと、人との極端な接触が嫌でコンビニやファミレスなんて仕事は向かないと思っていたので、これは最高のバイトだと思っている。自分にはピッタリだ。
たった一つだけ、このバイトで嫌なことがある。それは、延滞料金を払う客の殆どが、開き直って払いに来ることだ。これだけは我慢ならないのだけど、いちいち怒っていたらきりが無い。それくらい、延滞してしまう客は多い。
以前、延滞という期間をかなり超えて超過金を払いに来た20代だろう女性が、一番腹が立った。何と、平気で再生不可能となったメディアを持ってきたのだ。レンタルしていたのはありふれた内容のラブロマンスものだったが、再生できなくなったおかげで、このメディアに取り込まれた男女の恋物語も再生不可能になってしまった。少なくともこの映画の彼と彼女の恋は、成就することが無くなったわけだ。ある意味、彼らにとっては最悪のシナリオという事になる。しかしこの物語のラストは、恋を添い遂げられないと勘違いした男が狂気に走り、彼女の事を銃で殺してしまう。なんとも、後味の悪いラストである。それを考えれば、『死という成就』から逃れる事が出来た、と言えなくも無い。
返却しに来た彼女は、再生不可能になったメディアを持って店内に入ってきて、まっすぐに僕の居るレジに向かってきた。その時、ノースリーブの胸元から覗く谷間に釘付けになってしまい、視線をすぐに彼女の顔に戻すことが出来なかった事が悔やまれる。
彼女は会員証とメディアをカウンターに置くと、『弁償、幾ら?』と突然訊いてきた。
これはうっとうしい。間違いない。トラブルだ。こういう時に限って、店長は不在だ。僕しか居ない。
とりあえず中を確認すると、まっぷたつに割れたDVDが出てきた。状況を考えるに、荷物を置いて割ってしまったのか、故意に投げつけて割ったのか。どちらにせよ、彼女の言葉通り弁償するのが筋だろう。
ところが、僕はこういったトラブルが苦手だった。流れに任せるままに業務を行うのが好きなので、突発的に発生する事件が苦手なのだ。だから、この時もとにかく挙動不審になった。店員なのに、である。
『えーっと、弁償になりますね。代金は、…お調べするんで、ちょっと待っててください』
客に対して正しい日本語が使えたかどうかってのはあまり問題じゃないと僕は思う。大事なのは、不快感を与えずに意味が通じることだと思う。この時は、ちゃんと大切な部分を守ることができた。
カウンターの下に置いていある店長直筆のマニュアルブックを開いて、『弁償』と書かれた項目を探した。するとすぐに見つかって、該当料金も書いてあるのでその旨を伝える。
『弁償料金なんですけど、どんな場合であれ、再生不可能になった場合は一律5000円の違約金を支払うものとするって書いてあるので、5000円になります』
しどろもどろになりながら、やっとそれだけ伝えると、女性は財布から1万円札を取り出した。それを受け取り、その半額の5000円を返そうとすると、真顔で僕を睨みながらこう呟いた。
『今度は割れないようなものを入荷しなさいよね』
どうして僕が怒られているのが分からなかったし、不愉快にも思ったけど、何故か萎縮してしまい、『気をつけます』と謝った。僕が、だ。
女性はお釣りを受け取ると、綺麗に180度反転して帰っていった。カウンターの上に乗っている割れたDVDと会員証から考えるに、彼女は二度とこの店にはやって来ないだろうと思った。
…と、彼女の事を思い出した。今でも思い出すたびに、嫌な思いに包まれる。どうして僕が怒られなければならなかったのか分からないからだ。分かりやすく言うと、理不尽だと思ったからだ。
しかし、僕は考えるのをすぐにやめた。人間、怒るというのには物凄くエネルギーを使う。特に、僕はそうだ。だから、極力日常から怒らないように心がけている。そうすれば、無駄にエネルギーを使う事無く、疲労することもない。テレビを点ければ必ず何処かのチャンネルに出てくる人種に、怒り心頭な人たちがいるが、僕には彼らの存在理由が分からない。どうやったらいいのか方法までは思いつかないが、彼らのエネルギーを電気に換えることが出来れば、日本の電気事情はかなり好転するんじゃないかと本気で思っている。
そんな僕が、今夜はちょっと驚いている。まさかこんな時間に、こんなものを入手する羽目になるとは思ってなかったし、僕にどうしろと言うのだろう。
とりあえず処理方法が思いつかなかったので、ショルダーバッグにそれを仕舞った。
バイトから帰ってきたら、まずは安アパートの部屋の明かりを点けたままコンビニに行くのが日課になっている。帰り道に気に入ったコンビニが無いので、帰ってきて部屋の明かりを点けてから行くことになる。別に部屋に寄らずにコンビニに向かってもいいのだが、唯一の荷物であるショルダーバッグを置いてから、身軽になってコンビニに行きたいのだ。例え部屋が2階であったとしても、それは譲れない。乾いた音のする階段を上る労力よりも、荷物を置いてから身軽になれることを優先したい。
しかし、今夜は事情が違う。このバッグの中身を考えると、放置していくわけにもいかない。文字通り、肌身離さず持ち続けるしかないだろう。まったく。厄介なものを用意してくれたものだ。
今日だけは、バッグも持ったままコンビニに行かなければならないようだな。
帰ってきた時と同じ格好のまま、部屋の電気を点けたままで玄関を開け、外に出る。この時期、風が冷たい。これくらいの空気の冷たさは嫌いじゃないけど、びゅっと強めの風が吹き付けた瞬間は、さすがに寒いと素直に思う。嫌いじゃないけど、あの風は苦手だ。
てくてくと歩を進めながら、アパートを後にしてコンビニに向かう。このコンビニは、僕のお気に入りの店だ。
まず、深夜のコンビニでありながら、店頭で「たむろ」している連中がいないというのが好感が持てる。殆どの店では、『僕達は何をしても許されるんです』と勘違いした若者たちが占拠している。僕にとっては不愉快な対象であり、且つ理解不能な集団でもある彼らの行動は、簡単にそのコンビニの常連になれる可能性を摘み取った。コンビニなど、この土地に住んでいればあちこちにある。行きたくない店があれば、そこへ行かなければいいのだ。他の店を選んでしまえばそれで事足りる。不愉快だけど、便利な世の中への賞賛は忘れない。
しばらく歩けば、目的のコンビニにたどり着く。今夜も、いつも通りたどり着いた。
僕と同じで、力なく淀んだ目で仕事をしているのか留守番を任されただけなのか(店員なのは間違い無いから、さすがに留守番という答えは間違っていると思うけど)、ボーっとしたやる気の無い店員も、親近感がもてるので嫌ではない。が、進んで友達にはなりたくないタイプだ。
今日も、互いに目も合わせずに買い物がスタートする。静かになっているBGMは、もうお正月の雰囲気を出そうと必死になっている。この店にふさわしく、ボリュームが小さめなので不快ではない。
毎週買う週刊誌を手に取り、ツナマヨのおにぎりとカップラーメンを一緒に持っていき、清算する。
決まった金額を支払い、店を出る。『ありがとうございましたー』とやる気の無い礼でも、それを不快だと思わないのは、決まりきった時間を何度も過ごしている者だけが持ちえる感情なんだと思う。
店を出た僕は、来た道を戻り始める。アパートで食事をして、就寝するためだ。
ふと空を見上げると、月があった。明るく光るその月は、こんな僕にも『美』を感じさせるくらい素敵なものだった。この月を見ることが出来て、ちょっとだけ運がいいと思ったけど、この月の下には僕が考えも付かないような数の人間が居るはずだから、きっとこの光景を見ているのは僕だけじゃないだろうと思った。『美』へのうやうやしい感情は、すぐに消えた。
まるで、あの女性が弁償した映画の主人公たちのように。
アパートが見える距離になった時、嫌なものを発見してしまった。人間である。
僕は、この時間に人間に出くわすのはコンビニ以外では嫌だ。物凄く嫌だ。そしてそんな僕は、人がいると分かると、わざわざ道を曲がって遠回りして帰るほど、この時間に人に出くわすのは嫌だ。見ると、女のようだ。携帯で誰かと話している。まだ距離が遠いのと、月はあっても夜なので、うっすらとした輪郭くらいしか分からない。その人物が立っている場所は街灯から外れた場所になっているので、影に居るその人物が誰なのかまでは判別不能だ。
それでも、近付けばどんな顔をしているのかぐらいは見ることが出来るだろう。しかし、僕だ。僕なのだ。だから、この人物との接触は回避するしかない。せねばならない。
手近な曲がり角を見つけてそこへ身体を滑らせる。さも、ここを曲がるのが当たり前のように。
不自然じゃないタイミングで曲がり角を曲がり、遠回りして無事にアパートにたどり着ける…筈だった。
気付いてしまったのだ。曲がり角を曲がる時に、あの人物が誰なのか。間違いない。あの、弁償女だ。携帯で話しながら街灯の下を移動した時、チラッと見えた顔は彼女で間違いないと思う。
…どうしてこうもこの女と縁があるんだろうか。嫌だなあ。
しかし、この『遠回り大作戦』を変更してまで戻る気も無いし、第一彼女と分かったところですれ違う義務も無い。よって、この回避行動は無駄ではないのだ。うんうん。
…けど、彼女はこの辺に住んでいるんだろうか?気にしても意味が無いことだけど。
無事に遠回りして、弁償女を回避できた僕は、ぐるりと回りこんで逆方向からアパートに帰ってくることが出来た。いつもだと既にカップラーメンにお湯を入れている時間だったが、イレギュラーがあったから仕方が無い。寝る時間もその分遅くなるが、仕方が無い。いつも通りの行動になってない事が気になったが、すぐに元に戻ろうとつとめた。
…つとめようとしたけど、そうもさせてくれないらしい。アパートの外階段のところに、弁償女がいた。
弁償女は階段の一番下で座り込んでいた。顔を自分の丸めた膝に包み込む形で、突っ伏していたわけだ。それは、何もかもに疲弊して落ち込んでいるように見えた。その姿を僕が発見したのは、彼女と5mくらいの距離になってから。回り込んで歩いてきたから、彼女が電話を終えてこの階段下に来たのも分からなかったし、回り込んできた道から階段下にも回りこむ形になっていたから気付かなかった。
正直、面倒な事になったと思った。僕の部屋は、階段を上がらないと入っていけない。彼女がこのままなら、部屋に入ることすら出来ないわけだ。どうしようか迷い始めた時に、彼女が顔を上げた。
『あ、すいません、どうぞ』
僕の姿に気付き、自分が階段を塞いでいると気付いたらしく、その場から立ち上がって何処かへ行こうとした。
その時、僕は見てしまった。彼女の頬が、濡れているのを。多分、泣いてたんだ。
本当に面倒だと思った。だから、すぐにかばんの中に仕舞った、あれを思い出した。
その場をどうにかしたかった。どうしてこの女に巻き込まれなければならないのか。
コンビニからの荷物をゆっくりと地面に置いて、かばんの中を漁った。ゆっくりと。すぐに見つかった。
彼女が弁償したDVDを思い出した。思いを添い遂げることが出来ないと信じた男は、銃で最愛の彼女の命を絶った。
…僕にも、出来るだろうか?
かばんの中から、それを取り出した。
『?』
彼女は、目を丸くしている。
おそらく、僕があのビデオレンタル屋の店員だという事にも気付いてないと思う。夜の暗がりで、判別しにくいんだろうな。好都合だ。
僕は、おそらく生涯、この瞬間を忘れないと思う。
『なに、それ…』
彼女の言葉はそれだけだった。後の言葉を、聴かなかったわけじゃなくて、彼女は何も言わなかったからだ。
…言えなくなった、ってのが正しいのかな。
『にゃー』
『この猫、面倒見てくれませんか。貴方なら、きっと育てられると思う。僕には無理なんです。アパートだし。こっそりと何処かに捨てるつもりだったんだけど、忘れちゃった。さっきまで僕のかばんの中で寝てたけどね。元気だと思う。僕の変わりに、面倒見てくれませんか』
今でも思う。どうしてこれだけの事をすらすらと言えたんだろう。
猫が僕の部屋の前に捨てられていたのは本当だし、何処かでこっそりと捨てようとも思っていた。かばんの中に入れたのは窮屈だったかもしれないけど、バイトで使うエプロンが入っていたから、その上にそっと置くと結構快適だったらしい。そのまま移動したりしたのは平気だったのか気になるけど、僕は猫じゃないので分からない。
かばんの中でその小さな身体を抱えられた猫は、暴れもせずに僕の手の中に居た。そして彼女の顔を夜の暗がりで見た瞬間、鳴いたんだ。『にゃー』って。
彼女は、僕の手から静かに猫を受け取り、優しく抱えて一回だけ頭を下げた。そしてそのまま背を向けて、静かに歩いていった。
彼女の姿が見えなくなってから、やっと僕は深く息をついた。ドッと疲れた。
そうだ。あの映画、ラストはこうなっていた。
だからあれだけ、僕にもやれたんだと思う。
あの映画、最愛の彼女を、彼は救ったんだと僕は解釈している。
不治の病に冒された身体を毎日眺め、それでも気丈に生き続ける彼女の姿を見ることに耐えられなくなったんじゃない。
きっと彼は、救いたかったんだ。苦しみから。
狂気に駆られてなかったら、そんな手段は選ばなかっただろうにとも思うけど、果たして人間、自分が最愛と信じた人の苦しむ姿を、ずっと見続けていられるものなんだろうか。
彼は、耐えられなかった人だったというだけなんだと思う。あの映画は。ある意味、人が行き着く先の答えの一つを見せた、いい映画だと思っている。
僕も、彼女の事を救えたかな。
冷えた荷物を拾って、アパートの部屋に戻った。
後日、僕の住んでいる部屋の隣に住む男が、引っ越していった。
男というだけで、あとは面識すら無かったから感慨も何も無いけど。
弁償女のあの時の涙と、何か関係があるのかなっていうのは、僕の考えすぎなんだと思うことにして、もうこの事はこれ以上考えないようにした。
【了】