大人のアフターファイブ

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ついこないだ年が明けたと思ってたのに、もう年明けですかぁ~~~!

‥‥ってなワケで、子どものころの1年は長かったのに、

人間て年を取るたびに1年を短く感じるようになってくる。

わたしの感覚で言うと、小学3年生や4年生のころの1年の長さの感覚を

「100」とすると、中学生になってからは「90」くらいで、高校生になってからは

「80」くらいで、高校を卒業して大学に入ってからは「70」くらいで、

社会人になった22歳の時には「50~60」くらいになってた。

つまり、10歳の時に感じてた1年の長さが、22歳になった時には

半分くらいになってたワケだ。

そして、わたしは、30歳になり、100歳になったワケだけど、

100歳を過ぎた今の感覚だと、まるでフォーミュラーマシンが

目の前を通過するように、1年が「ヒュン!」と過ぎ去っていく。

中学生の時に、国語で「光陰、矢の如し」という言葉を習ったけど、

その時には言葉の意味を理解しただけで感覚としてはぜんぜん理解できなかった。

でも今なら、この言葉の意味を感覚としても理解できる。

時間と言うものは、年月と言うものは、ホントに弓から放たれた矢のように、

一瞬のうちに過ぎ去っていくものなんだ。

まだ100歳を過ぎたばかりなのに、それでも「光陰、矢の如し」的に

年末を迎えちゃったと言うことは、110歳を過ぎたら、いったい1年の感覚って

どうなっちゃうんだろう?‥‥なんて、いろいろと複雑な心境で迎えた今年の

年末だけど、年末と言えば、「とりあえず今年も何とか無事に過ごせたな」

という安堵感と、「無事に年が越せるかなあ?」という不安感との入り混じった、

何とも言えない年末特有の感覚になる。

子どものころは、生活のことはすべて親まかせだったから、

年末になると「お正月には、いくらお年玉をもらえるかな?」なんて

ノンキなことを考えてたけど、大人になってからは、1年を必死に生きてきて、

年末が迫ってくるたびに、仕事上での支払いの清算とか、生活上での家賃や

光熱費の支払いなどで、いつも厳しい状況に立たされてきた。

実際の仕事上の年末は「3月」だけど、江戸っ子の血を引く東京っ子のわたし

としては、「宵越しの銭は持たねえ」って感じで、できる限り溜まってた

支払いを済ませて、スッキリとした気分でお正月を迎えるようにしたい。

そんなワケで、借金がある人もない人も、年末と言えばそれなりに

お金が必要で、こんな世の中だから、クレジットカードでキャッシングしたり、

消費者金融でお金を借りたりしないと年が越せない人もたくさんいると思う。

でも、これは、今に始まったことじゃなくて、昔から日本の伝統みたいなものだ。

そして、昔はクレジットカードなんてなかったけど、どうしてもお金が必要な人

たちのために、それぞれの時代に、それぞれの消費者金融である「金貸し」

が存在した。

たとえば、江戸時代には、通称「百一文(ひゃくいちもん)」と呼ばれる

「金貸し」があった。これは、その日の朝に100文(もん)を借して、

その日の夕方までに利息の1文を足した「101文」を返済させたり、

翌朝までに「101文」を返済させるというシステムの「金貸し」だった。

カラスは1日のうちで朝と夕方に「カ~カ~」と鳴くから、

朝、カラスが鳴いたころに100文を借して、夕方、カラスが鳴くころまでに返済

させるとか、カラスが「カ~」と鳴くたびに利息がつくということから、

別名「カラス金(がね)」とも呼ばれてた。

100文借りて利息が1文ということは、1万円借りて利息が100円ということだから、

一瞬、ワリと良心的な感じがする。

だけど、1日で1%の利息ということは、10日で10%、つまり、10日で1割の

利息がつく高利貸しの「十一(といち)」と同じだ。

それに、この「百一文」というのは、あくまでも1日決済の短期金融の通称で、

実際の利息は「1文」じゃなかった。低いところでも2~3%で、中には10%も

の暴利を取る「百一文」もあったらしい。

江戸時代には、大工さんなど手に職を持つ人たちの生活はワリと安定してた。

一般的な大工さんの日当が、現代に置き換えると1万2000円くらいで、

仕事さえあれば月に30万円くらいは稼ぐことができた。

そして長屋の家賃は1年25万円くらい、1カ月2万円前後だったので、

余裕で奥さんや子どもを養うことができたと思う。

一方、手に職のない人たちは、物売りをするくらいしかないので、

「棒手振り(ぼてふり)」と呼ばれる行商をするケースが多かった。

長い天秤棒を担いで、その両端に籠をぶらさげて、そこに魚や野菜、

日用品などを入れて売り歩くものだ。

でも、魚や野菜を売り歩くのなら、朝早く河岸とかに仕入れに行かなきゃなら

ないし、仕入れをするにはお金が必要だ。

でも、こうした「棒手振り」は日銭商売なので、中には1日の稼ぎをぜんぶ酒

や博打に使っちゃう人もいた。

そうなると、翌日の仕入れのお金がなくなり、翌朝、お金を持たずに河岸に

行くことになる。

そして、「今日1日、魚を売って金ができたら払うから」ということで、

その日の仕入れのお金を夕方まで借りることになる。

これが「百一文」の始まりだと言われてる。江戸時代は240年以上もあるから、

貨幣価値もずいぶん変化してるけど、落語によく出てくる「二八蕎麦は

2×8=18文」という江戸中期の貨幣価値で見ると、

当時の1文は現代の18円くらいに当たる。

だから、この「百一文」を具体的に想像してみると、昨日の稼ぎをぜんぶ

飲んじゃった「棒手振り」が、朝、河岸へ行き、魚を卸してる親方から

100文(1800円)を借りて、そのお金で売れそうな魚をみつくろって仕入れ、

町へと売りに行く。だいたい、10文で仕入れた魚を20文で売るような感じだっ

たので、1800円で仕入れた魚がぜんぶ売れれば3600円になり、

夕方、2~3%の利息をつけて親方に返済しても、手元に1300~1400円が

残る計算だ。

当時はクーラーボックスなんてないから、早く売り切らないと、

売れ残った魚は腐ってしまう。仕入れの2倍の値段で売り歩いたとしても、

半分売れ残ったら儲けはゼロだ。だから、魚を扱う「棒手振り」は、

それぞれがお得意さんを持っていたらしい。魚を扱う「棒手振り」と言えば、

時代劇の「一心太助」くらいしか思い浮かばないけど、酒はほどほどにして、

博打になど手を出さずに真面目に働いていれば、この「棒手振り」から始めても、

商売を大きくすることができたと思う。

そんなワケで、こんなふうに始まった「百一文」だったけど、

そのうちに「百一文」専門の金貸しが現われ始めて、「棒手振り」以外の人た

ちも利用するようになった。幕府から許可を得て営業してた大店の金貸しは、

主に武士を相手に五両とか十両とかの大金を貸して商売をしてたので、

何の担保もない町民はなかなか利用できなかった。

そのため町の「百一文」はいろいろな人たちが利用するようになったそうだ。

町人でも、商売道具など金目のものを持っていれば、それを質草にして

質屋さんでお金を作ることができた。だけど、商売道具を質に入れちゃったら

仕事ができなくなるから、その質草を出せなくなってしまう。

そんな時に利用したのが、担保がなくてもお金が借りられる「百一文」だった。

そして、これも現代の消費者金融と同じで、生活費を借りる人もいれば、

吉原へ遊びに行くお金や博打を打ちに行くお金を借りる人もいた。

そんなワケで、江戸っ子の血を引く東京っ子のわたし的には、年末にお金が

なくても借金するのは嫌なので、300円が億にもなるタナボタ的な宝くじを

買おうと思ったけど、どうせ当たらないから買うのはヤ~メた!!!