今回で多田武彦シリーズもついに完成。どうにかすべての曲を使い切った。
それにしても、どうでもいいことに頭を悩ませた一年半だった。


………

ここからは前回の続き。

結局、足がたくさんある虫と僕は その後一時間ほど睨み合っていた。互いに動く事が出来なかったのである。

…先に動いた方の負けだ。

ゴキジエットプロを中空に構えたまま、僕はそう悟った。
しかし「互いに動けない」と言っても、こっちがウロウロしたりキョロキョロしたりと意外と動いているのに対し、相手は本当に全く動かない。
実はゴム製のドッキリ玩具ではないのか?と思えるくらいに動かない。いや、動かなさすぎる。

そして頭をよぎる一筋の疑い。

…ひょっとして、もう死んでるんじゃないか?

これぞまさに『魁!男塾』さながらの立ち往生。

「見事であった!」と言いかけて、ためしにゴキジエットのトリガーをちょっとだけ引いてみた。


ぷしょっ。


!!


カサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサ


ぎゃーー。


………

ぜんぜん見事じゃねー。

…僕は虫が嫌いだ。
強がりを言っても仕方ない、これはヒトの本能である。

蚊を叩き潰せるようになったのだって、やっと数年前のこと。それでも素手でパチンと打つには抵抗があって、スピリッツとかJAFメイトの表紙とかで叩くんだが、まぁ大抵はその風圧でどっかに行く。

そして蝿よりサイズが大きいと、自力ではほぼ無理。

針金ハンガーを伸ばし、その先にコンビニ袋を広げて結び付ける。

そんな蝿を捕るためだけに開発された道具は、中学の頃に作って以来、大学卒業くらいまで愛用されていた。蝿に触れることなく生け捕りにして、さらに窓から逃がす優れモノだったが今はそれすら使ってない。

蝿が飛んでも窓を開けてひたすら我慢。無視。
ゴキジェットで撃とうものなら、部屋の壁に跳弾しまくって怖いから。

………

昨日のゲジは、結局ゴキジエットの毒をもろに喰らった。
絶望的なスピードで動き回った後、海老反りになって白い腹を見せた。
そのまま頭と尻尾がくっつき、まるでキャタピラのような格好でしばらく悶えていたが、やがてゼンマイほどに丸まってピクピクしてから死んだ。

実際にはピクピク状態の時にティッシュに包まれ、そのままトイレに流されたのだから死んだところは見ていない。
それでも間違いなく死んだ。


自分で殺生しておきながらで何だが、こういう場面を見てしまうと「生きる事の意味って何だろう」と考えてしまう。

もしもゲジの人生(ゲジ生?)に意味があったのなら、それは一体、何だったのか。なぜあんなホラー映画みたいな死に方で殺されなくてはならなかったのか。
そしてなぜ、一瞬だけ「見事」だったのか。

そもそも産まれることと死ぬことは自分の意思では出来ない。生死は不自由で、勝手に起こる。
勝手に起きるものなら「産まれる」にも「死ぬ」にも理由は無いはずだ。
だからいくらそこに意味を見つけようとしても、それはしょせん後付けの理由でしかない。

しかし本当に大切なのは、その「後付けの理由」ではないのか。

産まれる と 死ぬ の間に確実にあった、生きていた という事実。生きている という事実。

あぁ、そういえば谷川俊太郎にあったな。

今、生きているという事。
鳥は羽ばたくという事。
海は轟くという事。
カタツムリは這うという事。
人は愛するという事。
あなたの手の温み、いのちという事。


………

カタツムリにとっては「這う事」、人にとっては「愛する事」が生きる意味ならば、這われる事、愛される事がそれぞれ「生きる受け皿」になる。

たとえ僕に、僕自身、僕のいる意味がないとしても、他の誰かには僕のいる意味がある。

僕の「受け皿」。

生かされる意味。


最終的にそんなもんじゃないのだろうか?


至近距離で構えた電池式アースノーマットで蚊を追いかけながら、僕はそんな回りくどい事を考えていた。


カーネルラボラトリー

― 回りくどく、「完」 ―


[参考文献]
『多田武彦男声合唱曲集①~⑧』(音楽之友社)