学生時代に突然、親しい友人を亡くしました。

心に大穴が空いたように感じました。


笑いや、喜び、集中力、持続力、食欲、恋愛への関心、あらゆる生きるための意欲を、根こそぎとまでは言わないけれど、絶えずその穴に吸い取られていく感覚でした。

さながらブラックホールのような、心の中に突如現れた暗黒の大穴でした。


私は若いのに。

人生これからだし、なぜ今

こんなに苦しめられないといけないのか?

大切な友達だったけれど、最後にこんなにも酷い苦しみを私に遺して行くのなら、

友達になるんじゃなかった。

知り合いになるんじゃなかった。


なんて怒りまで、一時期は持ちました。

亡くなった人に逆ギレなんて、私は未熟すぎる、亡くなったとたんに手のひらを返すようにこんなことを思うなんてあんまりだろう、と反省してはまた、色々な気持ちを吸いこまれていった気がします。

心の中の、大嫌いな場所。厄介な、目を背けたい大穴でした。


それから二十年弱の時間が経ち、今、心の中のイメージというか心象?

亡くなった友人のブラックホールホールはというと、

『色々な花で埋め尽くされた場所』

として、私の心の中にあります。


数年前から友人を思い出す時に、

その直前にフワッと浮かぶイメージが、

花で埋め尽くされた丸い塊なのです。

その場所を通して、友人の思い出にアクセスできる、という感じです。

私の心の中においては、友人の居場所は常にその花だらけの場所の奥なのです。

 

ブラックホールに苦しめられながらも、

毎日生きていて何か美しいものを見つけた時、

(私の場合は花がキレイだと思った時が多かったなと思います)、

友人が好きそうな雑貨を見つけた時、

友人との会話や一緒に見た景色を思い出した時、遺族のおばさんと談笑した時、共通の友人と懐かしむ時なんかに、マイナスのブラックホールに抗うように

思い出したり、新しく作り出した大切なもの、【プラスの何か】をそこに置く。

供えたそばからただ吸いこまれる。

最初は吸いこまれて、何にも見えなくなるけど、

毎日、何ヶ月、何年、十年とやっていると、

次第に穴が埋まっていくようなことがあるのでは。

あったのでは。


だからこそ今、友人の居場所が花であふれかえっているのでは。

「アリエッティの部屋みたいよ(笑)ああ、アリエッティ観てないよね。

花で散らかってるよ、掃除しなよ〜(苦笑)」と友人に語りかけたくなるような、ごちゃごちゃと花で隠れた空間です。


そんな風に感じています。

 

友人のことは、今では花で埋め尽くされたきれいな写真立てを見るような感覚で、リラックスして向き合える思い出になりました。

 

月命日や命日に揺さぶられることは、今はなくなりました。


大切な人を失う辛さは、わかります。

だけど肉親を失う辛さは、私はまだ知らず、はかりしれないものです。

 

私が体験したブラックホールより、

もっと凶悪に心を蝕むものだろうと思います。

だけれど、生きていく毎日の中で

人は必ずポジティブな何かを掴み取れて、闇にむかってそれを投げつける、投げ込む、投げ入れる、落とす、置く、供える、供える、供える…それをやり続けることで、いつか全て埋まってほしいです。


花でも宝石でも、故人が愛したありとあらゆるものを、思い出を、また、同じ苦しみを分かち合える人と、語りながら、新しい温かい思い出を築きながら、いつか全てふさがった時に、その場所と向きあって、出会えて良かった、と思えるといいなと思います。