昨晩10時くらいから読み始めて、深夜2時に完全に読了。

 4時間ほどかかったけれど、600ページあるものを読んだにしては、悪くない時間かもしれない。

 book3を売り場で摑んだ瞬間に、「あぁ、1Q84はbook3で終るのだ」と無意識に感じてしまった。それは予感でもなく、予想でもなく、ほとんど確信的に。

 しかしながら読み進めていると、6割強を読んだころ「これはbook4まで書かれるのではないか、そうするべきではないか」と感じた。そこまでの段階では、およそ残りの200ページほどでは、どう考えても巧い結末をイメージすることが出来なかったからだ。

 しかし、どうだろう。

 総てbook3を読み終えると、「これはbook3で素晴らしい完結を遂げたのだ」といわざるを得ない。

 つまり、残りの3割強が恐ろしいほどのスピード感や疾走感に溢れ、果てしない力があったということだ。

 練りに練られた文章からしか感じられないこと。それは三島由紀夫が語っているそれと同じようなものだ。

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 きっと、多くの人間が「解決していない事柄や内容が多すぎるし、何を書きたいのか分からない」と批判し、村上春樹の扱いはそんなに良くないのかもしれない。

 特にこの1Q84はそういう作品になっているとは思う。

 しかし、だ。

 そういうことでは、ない。

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 「何を書きたいのか」とううことではなく、この中で「何を書かなければいけなかったのか」ということだと、僕は思う。

 本当に「書かなければいけなかったこと」は丁寧に纏められ、それはもう慎重に磨き抜かれている。

 つまり存在していた多くの伏線や事象、枝分かれしたように思える幾つかの結末や行く末、そういうものは「書かなければいけなかったこと」ではないのだ。

 この小説を「カルト宗教批判小説」とか「性的ファンタジーの創造物」とか「村上春樹のオナニー作品」とか「よもや、文学ではない」とか批判されるようにも思う。

 そのどれもが全く分からないではないけれど、そんな揶揄は放っておけばいい、と感じる。

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 言わせておけばいいのだ。

 「書かなければいけなかったこと」はそういう人間に対しては重要なことではないし、理解されるべきことでもないし、あるいは必要のないことだからだ。

 いずれにしたところで、この小説は村上春樹作品の中でも、とりわけ素晴らしい作品に仕上がったと思う。

 量、重さ、濃度、密度、そんなモノがカオスとなって入り混じり、ダイレクトに触れられるように存在しているにも関わらず、現実的にはスッと体と頭に、限りない純粋物としてしみこんでくるのだ。

 そして、わずかな時間で溶け込む。

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 今更、ともいえるけれど。

 この1Q84をもってして。

 「あぁ、村上春樹はノーベル賞をようやく取るのだ」と。

 それも無意識に確信的に感じた。

 そういう、こと。     arlequin