今の人は月に来たる東雲を見ない。冬の枯木に流るる力を見ない。
然し此れは当然である。必定である。
「我々の生活に必要な思想は三千年前に尽きたかもしれない。我々の唯古い薪に新しい炎を加へるだけであらう」
此れは芥川の或小説に出てくる一節である。
近頃のやつがれの思想もその殆どが此の言葉から発している。
やつがれが此の言葉を知ったのはつい一月程前である。
やつがれは思想の存在については自身の中で意見を持っていた。
そして其れまでのやつがれの思想は此の言葉によって一度収束した。
ここから先は今時点での私の思想の大半である。
興味の無い人は読まないほうが善い。
恐らくこの世界はもう我々現代人による新たな思想を必要としていない。
此れ以上薪が増えることを必要としていない。
そして増えることの無い薪に拠って我々の思想は総て分類される。
新たな薪が増えることはない。
我々は薪の炎を連綿として絶やさないといふ事の為に勉強をしている。
つまり自身の人生で以て炎を守ることを、自身固有の思想の確立だと思ふことは考え違いである。
恐らく最期はやつがれも含めて、自身が生んだ思想と信じて止まない、過去の哲学者達の思想の炎に飛び込んで死んでゆくであらう。
やつがれはこれをプロパガンダだと、自由意思に於ける集団殺戮だと16年間そう思ってきたが、畢竟やつがれも何も変わらない。
知るといふことは死から逃れることである。
学ぶだとか知識を得るといふのは自分の人生の豊かさの為にやる行為だ。
何もない自身を人生に於いて着飾る為の、余りに利己主義な行為である。
然し学べば学ぶ程、知れば知る程、自身の行為は己の為でなく炎を守る為の行為だと気付く。
而して人生に於いて目的を失ふ。自身のやっていた行為が何も分からなくなる。
やつがれは社会地位に於いての束縛は何ら苦ではない。
然し思想に於いての束縛はこの上ない苦痛である。
嗚呼、私はどうか思想に於いてだけは自由な世界に生まれたかった。
