不登校を繰り返した3〜4年生 | かいほう塾ブログ 〜世界に一つの自分らしい生き方を選択する〜

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『人生の目覚まし時計』が鳴った五十路男子がチャレンジする〝気が楽になる〟という自分の羅針盤(直観)に従って、身体・心・ライフスタイルを整え、自分が望む現実を創造する生き方の実践記

僕が通っていた頃、佐方小学校は〝持ち上がり〟制で、二ヶ年同じ先生が担任してくれた。



低学年(一、二年生)は、吉岡先生という女性のベテランの先生が担任だった。



学校でどんな生活を送っていたのか、記憶も曖昧になってしまったけど、先生の名前と顔は、鮮明に覚えている。




失礼ではあるが、おばあちゃんのような優しさで接してもらった。




中学年(三、四年生)は、菊川先生という女性の先生が担任だった。



新任ではなかったはずだから20代後半〜30代前半くらいの中堅の先生だった。




その頃、僕はなぜかよく〝学校に行きたくない〟病の発作が起きた。




ある時は、登校途中に違う子供会の(顔も名前も知らない)上級生に突然、呼び止められ「お前のランドセル、(表)皮が違う。ニセモノのランドセルじゃ!」と難癖をつけられた。



確かに、本革ではなく、出始めのクラリーノだった。



自営業を始めて資金繰りに苦しんでいた両親に代わって、これまた農村部に暮らす母方の祖父母が、なけなしのお金を叩いて買ってくれたランドセルだった。





そのことを知っていた僕は、祖父母の想い、否、祖父母そのものを貶されたように感じて、涙がこぼれ落ちた。





その場でUターンして、家に帰ったこともあった。





その後も、ちょっとしたことで、気分が沈み、学校へ行けなくなることが度々あった。



毎度、母に叱られては、憂うつな気分で教育テレビを見ていた。



菊川先生は様子伺いと説得のために、何度となくスクーターに乗って訪ねて来てくれた。




今思えば、小学校の担任だから、全教科を受け持っている訳で、僕のために自習にして来てくれていたのだろうか?




あの時代に、不登校児をその当日に訪ねるなんてとても熱心で機動力のある先生だった。





それだけ手を焼かされた児童だったから、印象に残っていたのだろう。



30代になって、宅配の仕事をしていた時に、たまたま『菊川さん』宛の荷物を届けた。



僕が小学生の頃に住んでいた地区とはまったく違う地区の家だったので、何も思わずチャイムを押した。




中から出てきた女性を一目見て菊川先生だと確信した。





「お久しぶりです、板本です」と名乗ると、



「ああ、板本くん面影あるね。いい大人になったね」



と、当時と変わらぬ優しい笑顔で挨拶してくれた。



そんな菊川先生に憧憬とも恋心ともつかぬ気持ちが支えとなってくれた。




そんな不登校がちだった僕が転機を迎えたのは、5年生に進級してからだった。