1.肺結核
人の世の栄枯盛衰は儚きもの。
これから、何を目標に生きていくか。
肺結核で入院して、1ヶ月を超えた。
後 1ヶ月近く入院することになるだろう。
私の年齢を考えると、会社に戻ったとしても、これで完全に出世の道は潰えた。
振り返ると、今まで ずっと主役だった。
誰もが、陽のあたる坂道を歩める訳じゃないから、恵まれていた。
充分だと思う反面、もう一度 役職に返り咲きたかった。
2.入社
入社は本社の生産技術スタッフで、工場が抱える課題解決を支援するのが仕事。
今の時代なら、実力が無い新入社員が配属されることは無いだろう。
あったとしても、京大や阪大など高学歴の 将来、出世有望な新入社員。
私のような高専卒で配属されたのは、バブルだったからで、ラッキーと考えるべき。
3.長期出張
入社2年目から長期出張で、赤字工場の採算化プロジェクトに約4年ほど関わる。
無事、黒字化を達成し、プロジェクトを解散できたのは運が良かった。
シミュレーション技術の開発で発明考案賞も取れたし、プロジェクトの成功で、月例功績賞、社長賞も頂けたのは恵まれていた。
新入社員で配属されてから、プロジェクトが終わるまで、長期出張をしながらも、生産技術者として必要な教育を受けれたのは以後の会社生活に役立った。
1週間まるまる研修だけというのも、ざらでは無かったし、工場勤務では無理だ。
ただ、一緒に長期出張で仕事をしていた、1個上の先輩とは常に衝突していた。
当時は、自己主張が強く、指示されても素直に言うことを聞かず、生意気だった。
相手が右と言えば、左に行く。
今なら同じことを言われても、自分の考えを達成するために、相手の意見も聞き、その上で対策を考え実行するが、若く血気盛んで直情的だった。
「俺の方が先輩やぞ」
「先輩やったら、もっとしっかりせいや。」
事務所の人間が凍り付いた お互いの怒号は、今でも脳裏に焼き付いている。
結局、小テーマを 別々に推進し どちらが成果を上げるかを競争し、負けた方が勝った方に従うと決め、私が勝った。
それからは先輩の指示は一切 聞かず、俺は俺のやり方でやるとして お互いに顔を合わせて話をすることも、ましてや協力して仕事をすることも無かった。
その状態で、3ヶ月も仕事をしただろうか。
プロジェクトから、その先輩が去り、新しく配属された新入社員と入れ替わった。
もし、その先輩との関係が上手くいっていれば、今後の人生は変わっていただろう。
4.転勤
長期出張が終わり、本社に戻り半年くらい経ってから、長期出張をしていた工場に転勤となる。
転勤前、部長から 半年の間 断っても ずっと 工場長から転勤のラブコールがあったと聞かされ、社交辞令だなと思い転勤していったのを記憶している。
当時の工場長は、将来の社長候補と言われており、雲の上の存在で その人がそんなことを言ったとは信じられなかった。
華麗な職務経歴、頭の回転の速さ、高い実行力 そして天皇陛下とも揶揄された有無を言わさぬ カリスマ性。
「家庭の事情があるのは知っている。
君は私が責任を持って育てたい」
本当だったんだな。
5.工場長の指導
3年程の期間だったが、その言葉通り、工場長から直接 ご指導頂けたことは、会社生活において 今 振り返ると 非常に幸運だった。
当時は そう思えなかったが・・・。
それどころか、「工場長が何を考え何をしようとしようか書け」と言われても分かるはずが無いので、工場長室のホワイトボードの前で固まり、夜中12時超えても開放してもらえず、何の罰ゲームやねんと思っていた。
「生産性の管理を徹底する」ということだけでも、
生産性が良かった理由、悪かった理由だけでなく、何故、目標通りに出来たのか?
目標が甘いのか?現場・現物の作業はどうなっているか? ・・・ など
答えれないと、徹底するという言葉の意味を分かっていないとなるんだから。
本社から転勤したばかりの時は、机で考え資料を作って関係者へ根回しをしてと行動が遅かったと思う。
「すぐやれ、すぐ。工場長が言ったことは 今すぐだ。」
「現場・現物は見たのか。」
と、いつも言われている内に、原理・原則と照らし合わせて、現場・現物で、現実を確かめて、良いと思ったことは すぐ実行する様になった。
「どんなことでも、絶対に できないとは思うな。
やるためには、どうすべきかを常に考え行動し続ける。
初めは できないことでも、真面目に地道に一生懸命に継続していく内に、それが1週間になり、2日になり、最後には一瞬でできるようになる。
コスト改善では、自分が世界最高水準と言えるだけの経験を積み重ねろ。」
私は今でも、世界の誰かが成功できるなら必ず出来るはずと思い仕事をしている。
6.事業の状況
私が、その事業に関わったのは 約24年。
その間、黒字だったのは 5回だけなので、5勝19敗。
プロ野球だったら相当 叩かれてるよな?と思う成績なので、やはり経営幹部からの事業に対する風当たりは相当きつかった。
事業を取り巻く環境は厳しく、24年の間、いつも事業存続の危機だった。
私を含め、事業に関わっていたメンバーは、他の事業部と比べても、成果は抜きにすれば、一生懸命には働いてはいた。
毎日 夜中2時くらいまで残業したし、休日出勤もした。
月の残業は 200時間は超えていた。全て サービス残業だったが。
ただ、幾ら仕事をしても問題が山積みで
「働けど働けど猶わが生活 楽にならざり ぢっと手を見る」
という感じで、光が見えないので、さっさと潰れてくれと内心思っていた。
私は、残業は良いものだとは思っていない。
しかし、私自身は、若手時代の悪癖が身につき、今でも、職場でできなかった分を家に仕事を持ち込んで片付けて、足りない分を、時間でカバーしようとしてしまう。
工場長が会社を辞められてから、私が担当する取引先の顧問をされていたので、取引先の社長と一緒に会食をする機会があった。
会った時、私は、当時の記憶が甦り、緊張して背筋が伸びるのを感じていた。
会社を辞めたとはいえ、昔の上下関係を考えると、私のことを呼び捨てや君付けで呼んだり、工場長時代のことを話して偉そうにしたりされると思っていた。
普通は そうしてしまうもの。
しかし、私のことを さん付けで呼び、バイヤーとしての顔を立ててくれていた。
私自身も こうありたいと思ったのを記憶している。
7.キャリア形成
入社2年目から長期出張で約4年。その後、半年あけて転勤となり、製造スタッフを約7年。工場長に ご指導頂いたのは 製造スタッフの前半の時期。
製造スタッフの後、資材に業務応援で、1年間、取引先の体質強化活動を指導。
体質強化活動の後、資材に異動して、そのまま担当していた取引先を、バイヤーとして担当する。
今も、調達だから、もう20年近く、調達に関わっていることになる。
生産技術⇒製造⇒調達と 工場部門を一通り経験しながら、重点プロジェクトにも全て中心メンバーとして参画できたのは、キャリア形成上、恵まれていたと思う。
業務のキャリア形成だけでなく、人事面でも順調に昇格していった。
上司の配慮だと思うが、業績評価 A を付けて頂いた年に 課長試験を受けることができたので、トップ通過で昇格することもできた。
取引先を技術的に改善指導する立場から、調達業務を担当出来たのは、単なる価格交渉や見積比較だけでなく、理屈で価格を決めていくことができたので、価格を適正に評価し、コストダウンを推進できた。
今は 当たり前だが、合理的な購入価格標準(Purchasing Cost Standard)を決め、実際の現場・現物でムダ取りをした作り方で部品を購入する。
Design To Costの考えで、部品の機能分析をし、目標とするコストに向けた設計へ変更する。
ブラックボックスになりがちな部分に、聖域を設けず、妥協せずに メスを入れ、価格の内訳をガラス張りにすることができた。
ただ、バイヤーをしていた間、取引先との不適切な付き合いが全く無く クリーンな仕事をしていたかといえば、そんなことは無い。
甘い蜜を見つけてしまうと抗えない。
一度味わうと、その魔力を断ち切ろうとしても、心が、魔力に浸食されてしまう。
理想に向かってクリーンに仕事をしたい自分と、実際には現実の状況に流されて汚れていく自分。
仲間を裏切っていると感じる背徳感からか、良心の呵責からか、心に闇が出来ていく感覚があり、バイヤーであることが嫌だった。
8.インドネシア駐在
2012年から2017年まで 約5年半の期間、インドネシアに駐在し、部長として、生産管理、輸出入、調達、材料管理、受入検査を統括した。
インドネシアでは良い経験をさせてもらった。
仕事では、最大2000人の工場を動かす組織のトップとしての責任と権限。
責任が人をつくり、立場が変わると、今まで見てきた景色でも違って見えることを実感した。
来賓としての挨拶、組織のトップとしてのインタビューも貴重な経験だった。
生活面では、ミリオネアの生活を経験した。
住居は、高級住宅街の一戸建て。
部屋は、ゴルフの練習ができる広さ。ドライバーも振れた。
食事・洗濯・掃除は メイドがしてくれるので、家のことは何もすることが無い。
といっても、1番目は 2日しか来ず、2番目は 盗癖があり、収集していた日本円のピン札を20万ほど盗まれた。
現地通貨は盗むと思っていたが、日本円は盗むとは想定の範囲外だった。
それも、1~2枚抜くというレベルでは無く、全て盗むという豪快な手段で(笑)
3番目は 料理も掃除も洗濯も、大雑把でメイドに向いてない。
という感じで、最後のメイドになるまでは、メイドには恵まれなかったが・・・。
移動は、会社への送り迎えを含め、運転手が送ってくれた。
初めは、私が食事やマッサージを受けている間、何時間も運転手が私を待っているのに慣れなかったが、次第に その感覚は麻痺していった。
赴任したばかりの頃は、週末だけでなく平日でも カラオケに行っていたが、1年も過ぎれば、遊び尽くして飽きてくる。
ゴルフ場まで、ドア to ドアで、7分程なので、その分、ゴルフばかりしていた。
土曜日は 2ラウンド、日曜日は 1ラウンド で、大抵 3ラウンドはしていた。
多い年で、年間 150ラウンド弱。
大抵 年間 120ラウンド位 回っていたから、3日に1回は ラウンドしていたことになる(笑)
ゴルフの後は、マッサージを受け、その後、仲間で集まり、晩飯を食べる。
贅沢な暮らしだ(笑)
納税額が100位以内に入り表彰されるほど、現地給料をもらっていた。
普通は、現地給料を使い切ることなく、それに加え、日本の基本給も もらえるので、5年半も駐在すれば、レクサスを新車で軽く買えるだけの貯金は溜まる。
結婚していれば普通に過ごし貯金していたと思うが、独身なので貯金をする理由が無いので、豪遊して全て使い切るつもりで赴任した。
見事、帰国する時、私の元には お金が残らなかった(笑)
9.斜陽
順調だった生活も、会社でのキャリアも 2016年から斜陽となる。
本体の社長からは、2013年に
「3年以内に黒字化できなかったら、今度こそ本当に事業をつぶす。
事業存続のラストチャンスと理解して危機感を持って取り組め」
と視察時の訓話で言われていた。
1990年代から、同じようなことを言われ続けながらも事業が継続していたので、「オオカミ少年」のような感覚で、事業に所属する全員の危機感が足りなかった。
会社全体の業績が、売上げ・最高益を更新し続け、好調だったのもあるだろう。
世の中には知らなくても良いことがあり、知りたくなかった・・・ ということがある。
事業撤退とインドネシアの会社売却を正式発表したのは、2017年9月だが、2016年には、事業撤退を聞いていた。
収拾がつかなくなるし、インサイダー取引にも抵触するので、守秘義務を結び、誰に言うことも相談することもできなかった1年程の期間は苦しかった。
何より、部下を裏切り、毎日 嘘をつくのが辛かった。
私の部長方針のコンセプトは 「夢が未来を連れてくる」
ゴールイメージを描き、それを達成するための計画を立てて行動し続ければ、夢は夢で無くなり、必ず実現する。
やってできないことはある。だけど、やらなければ絶対にできない。
妥協せず高い目標を持ち行動する。
事業のクロージングを水面下で進めながら、よくそんなことを言えたものだ。
赴任したばかりの時は 本社に戻りたい、戻ってみせると思い、事業に対しての愛着など全く無かった。
それどころか、工場に いつまでもいては、課長、部長、役員と出世する妨げとなるくらいに思っていた。
しかし、2年経ち、5年経ち、10年が経ち・・・。
月日を重ねるごとに、事業への愛着が沸いてきて、かけがえのないものになってしまった。
サンクコスト、コンコルド効果なのかも知れない。
10.事業の撤退・会社の売却
インドネシアの会社の売却発表が公表された後、私の部下から、
「〇〇〇(私の会社)を憎んでいる。」
と泣きながら言われた。
覚悟していたことだが、直接 言われると堪えた。
事業のクロージングは、2017年12月に インドネシアから帰国してから、翌年6月まで続いた。
自らの手で空っぽにしていく日本の工場。
引き継ぎで行く度に変わっていくインドネシアの会社。
変わりゆく姿を見る度、大切な何かが壊れ、何とも言い難い虚無感を感じた。
11.日本での仕事
日本に戻ってからは調達部門に配属となり、調達部門を統括する新機種立上げのプロジェクトマネージャーをすることになった。
失敗していた新機種の全社プロジェクトを担当したが、運良く、成果を上げ、成功で終了することができた。
その後、もう一つ 失敗していた全社重点プロジェクトと、これから立ち上がる全社重点プロジェクトも含め、8案件の新機種プロジェクトを担当することになった。
なんとか最低限の仕事を回していたが、問題の先延ばしをしている自転車操業で、これが、私自身の気力・体力を大きく奪うことになった。
2019年 春先頃から、徐々に気力・体力が急速に落ちていくのを感じていた。
単純だが、家に仕事を持ち込んで片付けることが出来なくなってきたからである。
まさか、この私が、うつになったのか?と疑いたくなり、自分でやると決めたことは、いつもやってきたが、いつから出来なくなったのか?と この1年半、自己嫌悪に陥っていた。
自分では もっと出来ると自分を信じていた。
限界まで追い込めれば、情熱を掻き立てられれば・・・。
結局は、気力・体力を奮い立たせることが出来ず、結果を残せなかった。
2019年 春以降は、実績が残せず、担当する新機種プロジェクトが減っていった。
半分になり、全社重点プロジェクト 2案件だけになり、最後には、1件だけになった。
その1件も、7月を最後に外れ、もう一度 捲土重来という想いを現実にすることは叶わない。
12.事業への想い
充分だと満足する自分より、無念という気持ちの方が大きい。
上手く言えないが、負けたくなかったし、負けてはいけないと思っていた。
他の事業部へ異動した仲間から、
もう一度 昇進して欲しいと言われたのは心に突き刺さった。
理由を聞くと、部長でも、他の事業部に行けば、課長にもなれない実力。
事業のトップだった人間が そう思われると、事業自体が負けた気がして、自分の事業で過ごした日々も否定されている気がする。
自分が できることを証明したいけど、悔しいけど出来ない。
勝手だけど、せめて、「この部長、〇〇出身」 と自慢させて欲しい と。
私は、事業撤退により、今までの会社人生を全て否定された気がした。
私の会社人生は何だったんだろう?
今まで費やした時間は無駄だったのか?
事業のメンバーのレベルが低かったから、事業が潰れた。
負け犬の集まりじゃない。そうじゃないと皆に分からしたかった。
私が、もう一度 役職に戻ることで、そう証明したかった。