前回は、タスマニアを一緒に旅行しながら、韓国人の友だちと夜な夜な語り合った経験についてお話ししました。

ホバートというタスマニアの州都に落ち着いて、TAFEとよばれる職業専門学校に通い始めた私は、オーストラリア人と同居生活を始めます。

オーストラリアでは家賃を浮かすために知らない方と一緒に住むのは普通のことです。

新聞でフラットメートと呼ばれる同居人を探して、一緒に住みました。

若い女の子が良かったんですが、50歳ぐらいの男性の出していた条件が一番安く、彼と一緒に住むことになりました。

家賃が一週間で4千円ぐらいと格安でした。彼は離婚歴のあるバスの運転手でした。

彼が料理係で、わたしが洗い物の係りになりました。

彼に教えてもらったスーパーマーケットにビール製造キットが売っていました。

説明書にビールを作るための材料と作り方が詳しく書いてあって、最後に決してこのキットでビールを作ってはいけません、と書いてありました。

週末に彼と一緒にビールを作って毎晩一緒に飲んで、よくクリケットの試合を観ていました。

ビールの後に、ポートワインという甘いデザートワインで締めるのが、私たちのルーティーンになりました。

彼は酔っ払っらうとよく、戦争中の日本軍によるオーストラリア北部のダーウィン爆撃の話を始めました。

覚えているのか覚えていないのか、何回も同じような話をしていました。


韓国人との旅行中ならいざ知らず、こんなところで太平洋戦争が出てくるとは思いもよりませんでした。

日本にいたときには本でしか読んだことのない日本の過去を意識しました。80年前の非合理な開戦の判断は、色々な場所に影響を与えていました。


一緒に住み始めてわかったのですが、彼は精神的に不安定な人で、たまに娘さんから私に電話がかかってきて、父は大丈夫か、と聞かれました。

携帯電話のない時代、横で彼が聞き耳を立てている状況で、娘さんに彼の近況をつたえるのは苦労しました。