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けんけんパー

雑談をする場所です。

 

最近思うのが、友人が亡くなってしまったら、その情報はどうやって入ってくるんだろうということ。まさか、死んだ友人から、「私、死んじゃった!」とメールが来るわけでもないし。親族がわざわざ自分に、○○君、亡くなりましたと連絡を入れるとも考えられない。新聞のお悔やみの欄を気にするべきなのかもしれないが、残念ながら、恥ずかしながら、「まだこの歳で」とか思っちゃって、気にする習慣などありゃしない。そういえば、新聞自体最近全然見てないなあ。まだ欄自体はあるんだよね?それとも携帯会社の力で当人のロックを解除し、LINEなどが見れるようになるのか?だとしても、携帯に入っている膨大な情報から、自分がピックアップされない場合だって、十分に考えられる。

 

 

 

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割と交流のあった後輩が亡くなったことを知ったのは、既に亡くなってから1年もした後だった。バイクで交通事故。「そういえばあいつって事故ったらしいよ」と、噂話のように自分に届いてきた。すげえ不謹慎かもしれないが、その時切実に思ったのは、「なんか今知ってもなあ・・・」というぼんやりとした感情だった。落ち込みようにも落ち込めないというか。情報はやはり、鮮度が大事な気がする。それでいくと、知ったのは「今」のはずなんだけれども。

 

 

さらに不謹慎を重ねてしまうかもしれないが、「なんかマジで長くないんじゃないかこの人」と思ってしまう人が、何人か居る。「ヤバそうオーラ出してるけど全く心配なさそうだなこの人」って人の方が、当然多いんだけど。

そういえば、ファンから語らせると、太宰治の死んだ原因は本質的には自殺ではないらしい。太宰治は、自殺ではなく、「自殺未遂に失敗して」、命を落としたという。なるほどといった感じ。となると、「ヤバそうオーラ出すための、なんちゃってリスカとかしちゃうやつ」も、十分怖い。

 

 

 

ここまで書いて既に反省しないといけないのが、話が自殺とかそっちの方向に進んでいることだ。やはり自分は、「まだこの歳で」、とか甘い考えをしているみたい。本来、命に関してはセーフティな立場から物は言えないはずなんだけれども。これが、平和ボケなのかな。

 

 

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自分は、命に対してかなり危機感持っていた時期が、明確にあっただけに、余計にしょうもない。パニック起こしてた時期は、かなり生と死の考えが身近にあったような気がする。別に今も治った訳ではないはずなのに、当時と比べたら、平和ボケが凄まじい。

当時のことを思い出すと、はっきり言って感性の働きが尋常じゃなかった。外を歩く度に信じられない発見をしたり、聞こえてくる音に対しての反応もおかしいことになっていた。感度ビンビンだったんだと思う。ただ、他人に対しては淡泊な対応をしていた。まあそれはいい。

 

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俺の中でなんとなく禁断としていた超名作マンガ、『ぼくらの』を最近ついに読んでしまった。基本的に、「死に直面した途端、人は思いっきり生きることができる」という話だが、先ほどの自分の体験を踏まえても、まさにその通りだと思う。それでいくと、人はいずれ死ぬ(とされている)のだから、精一杯生きることはできるはず。でも、どうしても遠い。一度病気を患った自分ですら平和ボケを感じているのだから、フツウに生きてきた人たちにとっては、ハンパない遠さなんだろうなあと。単純に、自分が未熟なだけかもしれないけど。

 

 

 

よくありがちな構図として、「平和ボケしていない人たちが、平和ボケしている人達に対して、危機感を促す」というものがあるが、ボケてるからこそ(表現がきつい笑)、ある種平和なのかもしれないし、なんとも難しい(それを最大の不幸とする人もいるし)。とりあえず、自分は、完全に平和ボケしている人も、その逆の人も。真ん中の人も、なんか変な所にいる人も、とりあえず、びっくりドンキーでも行って、ご飯でも食べたいなといった感じ。特定の位置にいるだけの人たちとだけ仲良くいて行くってのもいいんだけど、なんか自分は、違うような気がする。ただ、皮肉なことに、こういうこと言うと、人は離れていくんだよねー。まあ確かに、信用ならないか。「なんでも買取屋さん」って、値段とかそういうのを調べる気にもならないくらい、買い取ってもらいたくないよなあ。疑い深いことはいいことってことにする?

 

 

危機感とか思いっきり生活するとか、そこらへんに話を戻すけど、要はこれって、「人生このままでいいのかな」ってことだと思うんよね。その想いがどれだけ色濃くあるかどうかっていうか。

そうじゃない生き方の人からしてみると、なかなか理解できないかもしれないけど、今の人って、「仕事に生きています!!のような人にはなりたくないが、そうは言いつつも、休みの日は何していいかわからない」って感覚が強いと思う。

 

 

「今の人」としたけどこれはおそらく間違い。昔からこのぼんやりとした危機感、焦りは昔から存在していたと思う。父がそうだった。仕事を辞めた今、何していいかわからなくなってるみたいだ。父はランニングという趣味があるからまだマシのように思える。本来、やっと働き終わった!と解放されるはずなのに、待っている現実は、自由すぎてどうしていいのかわからなくなってしまうという。自由を操れる力って、いつ養われるべきなのだろうか。

 

 

 

友人から、「何していいかわからないから結婚したいんだ〜」という発言を聞いた時、信じられないくらい納得した。自分は全くない考えだった。確かに、共生は、仕事以外の時間の使い方をわかりやすくしてくれる。結婚は、広すぎる自由を狭めてくれるかなりいい手段だ。子供もいたら、さらにわかりやすくなる。仕事の日は仕事で忙しく、休みの日は家庭で忙しく、、が、人生している実感になるのであれば、それでオッケーだよなあ。周りのことで忙殺されている人生は、「お前の人生それでいいのか?」とか言われがちな印象を受けるが、そうじゃなかったんだなあ。それもそれで、自分で掴み取った展開なんだよなあ。なんだか、死ぬ話を初めにしていたはずなのに、気づけば生きる話をしてる。ウケる。

「私の人生 誰の物でもない 奪われるものか 私の自由 この人生は夢だらけ」、椎名林檎の新曲『人生は夢だらけ』でも聞きましょうかね。