こんにちは、香琳です。

 

ソウルプランのことを書かずに

違うことばっかり書いているんですけど、

今度は過去世・過去生についての話。

 

これね、少なからずみなさん気になると

思うんですよね。本気かどうかはさておき

ノリやネタレベルも含めてね。

スピリチュアルに興味がある人は

ほぼ通過してきていると思う案件です。

 

私はというと、当然、興味はありました。

けど、知ったからってどうするん?

というのが本音で、ネタ的に知っておもしろい

くらいにしか捉えてなかったんです。以前は。

 

それが、数々の出来事を経て、

 

「むむ…過去生、侮れんな…」

 

と思うようになりまして、それからは

ある程度影響はあるのだろうという認識に

なっております。

 

 

この過去生って、流派というか考え方や定義が

さまざまあると思うのですが、

私個人的には「今生をよりよく生きるために必要な

今生以外のデータ」という説を採用しています。

 

実際に私自身がその過去生を生きたのかは

不明ではありますが、そのデータを引っ張って

くることが今生を生きるうえで

(自分を形作るうえで)最善最良であるから

目に見えない設定等の影響として存在している。

そしてそれを何らか感知できる人がその人の

言葉として、前世や過去生として伝えてくれる。

 

それらは今生を生きる当人にとって、

然るべきタイミングで必要であれば知ることができ

今生での経験値を上げたり、人生を進めていく

助けになってくれる。

 

このように理解して私は活用しています。

 

 

よくある「前世はマリーアントワネット」

みたいなのは、実際そうかもしれないですが

たいていは比喩なのだろうと思いますね。

言語化するのはこの世を生きる人間なので

その人の言語化能力に依存しますから。

 

前世や過去生を知りたい場合、

ヒプノセラピーなどの退行催眠を受けたり

誘導瞑想などで自分で見る方法と、

サイキックな人に視てもらう方法があります。

 

私の場合は、ヒプノセラピーで視たものと

前世カフェのようなところで視てもらったもの

サイキックな友人知人に言われたもの

自分でわかったものがあります。

なので、結構な数を認識しています。

 

 

で、割と悲惨な死に方とかしてますね笑い泣き

一番初めにヒプノセラピーを受けた時は

ヨーロッパのシャーマンでしたが、

ある時、甲冑を着た兵士がぞろぞろと家に

やってきて捕まり、幽閉されて死んでしまう

という寂しい人生でした。。

 

他にも、エジプトの王妃?だった時には

自分の生んだ息子を魔女に呪われて

天然痘のような病気で亡くしてしまい

失意のあまり、身を投げてしまいました。。

 

 

あとこれは自分で視てわかったのですが

もひとつ別のエジプトの過去生では

貧しい生まれで露店で天然石のアクセサリーを

売っていたのですが、手の美しさに惚れた

大富豪のおじさんに見初められ、

立派なお屋敷に嫁ぐことになりました。

が、手に惚れた旦那様に何もさせてもらえず

籠の鳥になっちゃったんですね。

手が傷つくとダメだということでね。

 

それで自由になりたかった私は、手が美しく

なければいいんだ!と思いつき、ナイフで

左手の甲を突き刺すのです。

案の定、旦那様は憤慨し、捨てられてしまい

屋敷を放り出されます。結局また元の市場の

ようなところに戻って細々と暮らしました。

 

これね、恐ろしいのが、実は今生の私の

左手の甲の真ん中にあざがあるんですよ。

そして手は本当にいろんな人に褒められるの。

どこに行っても手は褒められます。

手タレになったらいいのに~!って

若い頃から何度言われたことか。

ネイリストの友人からもモデルに!って

お願いされたりね。

でもね、左手にあざがあるから無理なの~って

いつも思ってました。

 

だから、この過去生の映像を見た時は

本当にビックリしました。

え~!あの刺した傷の場所やん!!!びっくり

 

よくね、あざはバースマークとして

過去生からのメッセージや生まれ変わりの証拠

として言われたりしますよね。

それが自分にあってビックリしたのでした。

 

それ以外にも今生の私には

見た目のコンプレックスを抱くようなものが

先天的にも後天的にも複数あります。

 

子どもの頃や若い頃はとても辛かったですが

おそらく、今生では外見ではなく

「内面を見てくれる人と付き合いたい」と

強く意図してきたんでしょうね。

 

実際、それは自分でも感じます。

自分を内面を見ていない人には嫌気がさしますし

だからかどうかは知りませんが、学歴も持たず

外側の看板のない人生を送っているようにも

感じますね。

 

企業に勤めている時には、当然ながら看板が

ありましたが、相手の人が私ではない後ろを見て

いるんだな~と感じることは多々ありましたし

そういう時に、仕方がないとわかりつつも

とても残念に感じたものです。

 

今も、どこにも属さずに何者でもない私を

生きていますが、無力さを感じはしますけれど

でもそれが身の丈で、何より周りにいる人は

私の外側の飾りではなく、内面や本質を見て

近くにいてくれる人だけなのでとても幸せです。

 

そんな風に、あながち無関係ではないのだろうなと

過去生については思ったりしているわけです。

 

 

まだまだ書けてしまうので、続きは次回に。

では、また!