人の話を理解する為には、最低限の知識と経験が求められます。

聞いた話が「何に基づいたものなのか」「言っていることは正しいのか」というのは、自身の知識や経験と照らし合わせ判断することが多く、知識や経験というのは話の整合性や正誤の判断をする材料となるのです。

この材料が欠けてしまうと別の材料を探し判断しようとします。

次の判断材料として最も多く使われるのは、言っている人の人柄や肩書ではないでしょうか。

特に肩書や実績というものを信用する人は多いと思います。

理由としては「説得力があるから」なんでしょうけど、本当に説得力ってそういうものなのでしょうか??

 

例えば、有名な実績のある数学者が「1+1=3でした!!」と言ったのに対し、一般人が「1+1=2でしょ」と言った場合、皆さんはどちらに説得力があると感じ、どちらを信じますか?

恐らく後者の1+1=2を信じる人が多いと思います。

何故なら我々は1+1=2であることを知っていて、どうして2になるのかも理解しているからです。

 

では、これが超難しい初めて見る数式だったら、どうでしょう?

有名な数学者と一般人で言っていることが違ったら「よく分からないけど有名な人が言っているし、そうなんだろう」と数学者の方を信じる場合が多いと思います。

 

本来、理解できないものに対して説得力なんてものは存在せず、肩書や実績しか判断材料が無い為、それを説得力だと勘違いしてしまう。

これは鵜呑みにしている、ということだと思います。

言い方を変えれば「誰々が言っていた」というレベルの話であり、信じるに値する信用スコアではないと思っています。

 

また、データやエビデンスに説得力を感じると言う方も多いですが、どのレベルまでデータを理解できているのかも疑問に思います。

全てがそうではないですが、狙った通りの結果を出す為に環境を構築し実験を行うことも少なくないので、出るべくして出た実験結果というのは案外多かったりします。

データを見る際には結果だけではなく、どういう環境で行ったのか、その環境は自然で公平なのか、というところまで目を通すと信頼性は上がると思います。

そこまで公開されているデータやエビデンスは少ないのですが……

データを見る場合でも、それが何をしめしているのかを理解できないと説得力にはならないと思っています。

 

つまり、説得力自体が話をある程度、理解できて始めて生まれてくるものであり、そもそも分からない話には説得力なんてものは無く、あると錯覚しているだけなんだと思います。

 

外から情報を得たときに、それが正しいのかを自分の中で判断、つまりは考えることが大切で分からないことは人に聞くのではなく自分で調べる。

調べる場合も1つの資料を見るだけではなく、沢山の資料を見比べた方がより良いと思います。

物事というのは、視点を変えたり解釈次第では都合よく捉えることも可能であり、その殆どは本質ではなく一部分しか見ていない場合が多いのです。

様々な視点、あらゆる角度から見ることで初めて全容が見えてきます。

 

こうして、調べて得た情報と自らの考えを持ち、両方を照らし合わせ納得し飲み込むことが理解だと思っています。

調べただけでは記憶するだけであって、調べた情報に対して自分はどう思うのか、自分の考えを持つというのが大雑把ではありますが、記憶と理解の違いではないでしょうか。

 

  

理解出来た話は知識として蓄えられますが、理解の及ばない話は記憶するにとどまります。

理解と記憶は全く別なので記憶で止まってしまっているものを理解したと勘違いしてしまないように気をつけましょう。

記憶した後に知識や経験がつき、「あぁ、あの時のはこういうことだったのか」と理解に繋がる場合もあります。

 

決して、どちらが良い悪いという話ではありません。

わざわざ理解する必要もなく、記憶だけにとどめておく方が良い場合もあります。

理解と記憶は、ケースバイケースなので勘違いをせずに上手に使い分けをしていきたいものです。

 

勿論、僕のこの話も鵜呑みにせず、自分の知識や経験と照らし合わせて考えてみてください。

 

最後に、技術が格段に進歩し誰でも簡単に情報を得られる世界になりました。

これは大変素晴らしいことではありますが、答えが簡単に手に入るので考えるという過程を無意識にスキップしていることも多くなりました。

時間の短縮に繋がり要点も抑えられるので効率的で理にかなっているとは思いますが、同時に創造性や思考力が損なわれている気もします。

便利で浮いた時間を少しでもいいので「考える」ということに回していきたいですね。