岩井裕貴の物語

2003年生まれの私の同級生の皆さん、大学生の人はご卒業おめでとうございます。そして既に働いている方、いつも本当にお疲れ様です。

ブログなんて書いたこともなければ人生で数回しか見たことないけど、この度友人が素晴らしき人生の一部を共有してくださったので私もぜひ書き記し、関わって頂いてる全てのひとに少しでも共有できたらなと思います。不器用な私ですが、見ていただけたら嬉しいです。





私は埼玉県の越谷市で生まれ、22年間生きてきました。野球といっても、始めたのは小学校3年生の頃に同級生の女の子の兄上から「お前運動神経いいからグランドに来て野球やろうよ」と誘っていただいて、少年野球チームに所属。私の野球人生が始まりました。

小学生の頃は監督もコーチも怖く、自分の中での最高のパフォーマンスを出すことが難しい環境で野球を始めました。沢山笑って、沢山泣いた2年間でした。

ところが当時所属していたチームのキャッチャーが

「俺中学受験するからやめるんだ」といきなり言われ、驚いてしまったのを今でも覚えています。小学5年生ながらに辞めないで欲しいと伝えましたが、所詮小学生の意見なんて通る訳もなく。お別れとなってしまいました。ただでさえ人数が少なかった私のチームから奥義の要(キャッチャー)が居なくなってしまうということは、私にとってひとつの光を失ってしまったという表現が1番合うかと思います。実際その友人は慶應義塾大学を卒業し、今年から大手企業に就職します。今でもよく連絡を取り合う仲です(笑)

ただこのままだと私の球を取ってくれるキャッチャーがいない。成長環境に限界を感じた当時の私はチームを移籍する事を決断しました。仮にも中心選手を任されていた自分が移籍のことを監督に話すと、面と向かって怒鳴り散らかされました(笑)そりゃあそうでしょう。ほかのメンバーはひとつの方向を向いて頑張っているのに。ただ自分本位な私は残留する気もなく、新たな新天地を目指して隣の市の少年野球チームに所属が決まりました。


そこで待ち構えていたのは、今までにないようなレベルの選手たち。全員がひとつの方向を向いてレベルアップを目指している環境。これこそ私が求めていた環境だと確信し、新たな野球人生がそこでスタートしました。



馴染めるか心配でしたが、同級生やスタッフの皆さんが本当に良い方ばかりで最高の環境でした。当時のチームは言い過ぎかもしれませんが、県内でトップレベルで練習していたんじゃないかなと思ってます(笑)全員で全国を目指して日々の練習に取り組んだ経験は、なんなら今の人生でめちゃくちゃ生きてると思ってます。



中学からは、地元の硬式クラブチームに所属しました。当時のクラブチームはやはり昭和の考えが残った厳しい環境でした。ただこの頃からですね。私が中学2年生から3年生のタイミングで説教や体罰のラインがガクンと落ちました。「あれ、今まではこのプレーしたら怒鳴られてたよな。」「ん、水分補給勧められるようになったな。」これがいわゆる僕の中でのゆとり世代かなと思ってます(笑)

私のチームの監督は人格者で、人間性の塊のような人間でした。僕はトイレ掃除を任されていたのですが、「裕貴、トイレはこうやって磨くんや。」と素手でトイレを磨いて見せてきた様なこともありました。

そんな監督を胴上げしたい。そう思って辛い練習も仲間と切磋琢磨していました。ここ辺りからやらされる野球から、自主的に上を目指してやる野球に変わったのかなと思っています。




また、中学では陸上競技部に参加しました。足が特別速かった訳ではないですが、砲丸投げという自分の強みを活かせる種目を見つけました(笑)

平日の部活でのトレーニングが実ったのか、共通男子砲丸投げで県大会に出場することが出来ました。

ここでの経験も、めちゃくちゃ活きてます。私の中学の陸上部はみんな意識が高く、カッコイイです。




めっちゃ細いですね(笑)沢山食べて沢山寝ていたはずなんですが、176cm68kgとかでした。

ただ実力が着いてきたこのチームでも、全国大会出場とはなりませんでした。ただ、周りの環境や関わってくれていた全ての人から沢山のことを学ぶことができました。私の中での木の根っこは、このチームで確実に鍛え上げられたと思っています。ここでの悔しさと夢に向かって、また私は新たな人生をスタートさせます。



高校は千葉県にある私立高校に決めました。

ただここでの過酷な経験が、私の人生の起点となりました。入部を決めていざ入寮。周りには僕から見る限りあまりやる気のない同級生。先輩とはあまり話せる雰囲気はなく、山奥に佇む高校にポツンと取り残された気分でした。寮生活をしながら野球をするなら甲子園を目指したい。当時の私の気持ちとはかけ離れている環境がそこにはありました。ただ私も未熟の極。世間のことなんて何も知らないから頑張ってみよう。その気持ちは入寮一週間で消え去りました(笑)




よる9時、脱獄計画を計りました。最寄りのダムにあるバス停まで寮から走って15分。そこから2時間かけて東京駅に到着するバスを目掛けて夜道を走りました。外は真っ暗。走っている途中も先輩3人がかりで停められ、心が折れかけていました。ただ力に自信があった私はそんなものは振り切って一人でノースフェイスのリュックを背負ってバス停まで走りました。

走って走ってやっとバス停に着きました。バスの発車時間まであと少し。ただ時間になってもバスは来ませんでした。ただ聞こえるのは、走ってきた道(山奥)から聞こえる車の排気音。監督のレガシーだ。終わった。レガシーがバス停に到着すると後ろから身体の大きな先輩が2人。監督から「お前何勝手なことやってるんだ。調子に乗るな!」当たり前です。先輩2人に両腕を捕まれ、泣きながらレガシーに乗って寮に連れ戻されたことがもう7年前って考えると底知れぬ成長を感じます。その日は先輩の部屋で寝ろと言われ、先輩の部屋で寝ました。「お前一旦落ち着けよ。」

「はい、迷惑かけてすいませんでした。」こんなやり取りをしながら次の日、朝5時に起床して東京駅八重洲口行きのバスに乗り込み家に帰宅しました。



地元に帰ると、中学の友達との顔合わせ。「どうしたの?帰ってきたの?」と。当時の私のプライドが邪魔をし、「一旦帰省してるだけだよ!」と。めちゃくちゃダサいな自分。逃げ出したのに、本当の話なんて友人には出来ず、通信制の高校に通う準備も初めていました。親と転入案内のある高校に行き、ここかな。

「あぁ、俺何やってるんだろう」私の人生の中で唯一鬱になっていた期間でした。ただ、この頃の私ですら中学のチームの監督は見捨てませんでした。新しく野球ができる環境を探してくれました。それこそ当時のプライドが邪魔して、感謝の気持ちをストレートに伝えることが出来ませんでした。その監督がいなければ、私の人生は180度違ったかと思います。



県内の私立高校に編入が決まりました。偏差値は私の偏差値くらい。俗に言うヤンキー高校みたいな、今日から俺はみたいな学校でした。流石に言い過ぎですが、また野球を継続できる環境を与えてくれた様々な関係者の人には感謝してもし切れません。ただ一つ、一緒に頑張ろうと約束した、辞めた高校のキャッチャーには本当に申し訳なく思ってます。彼とは高校が終わるタイミングで再会を果たすのですが、本当に良い奴で、私よりひと足早く社会人になっていました。改めてごめんなさい、と伝えたいです。


高校一年から二年に上がるタイミングで、新型コロナウイルスが流行してしまいました。部活動としても活動が3ヶ月出来ず、苦しい日々でした。漠然としていたある日、家の近くの元荒川沿いを歩いている時でした。このまま何気なく野球やって、終わっていいのかな。周りの人に助けて貰ってばかりで恥ずかしくないのか。こう言った気持ちがよぎるようになりました。

もちろんプロ野球選手を目指して努力していましたが、恐らく口だけだったのでしょう。もうこれ以上ダサくなったら終わりだな。私はこの3ヶ月に命をかける勢いで努力しました。徳島県にある独立リーグの指導者から教わったことをこの期間毎日取り組みました。するとこの期間で球速が10km上がり、高校二年の春で142kmを計測。本格的にプロ野球を目指すことを決めました。


ありがたいことに、その年の冬から高校三年生の春にかけて球団のスカウトも来てくれるようになり、9球団見に来てくれました。私の言っていたプロ野球選手が現実味を帯びてきました(笑)


最後の夏の大会。一生右腕を振ってました。

順当に勝ち上がりベスト8をかけた試合。相手は当時で言うと甲子園常連校。エースも仲のいい友人。

ありえない程ウキウキした試合でした(笑)

夏の日差しが照りつける上尾市民球場。8回の表。

気合いの146km計測。球速いな俺。

私は30イニングぶりに失点を許してしまいました。8回の裏にキャプテンの意地のタイムリー等で同点に追いつきましたが、9回にも私の詰めの甘さで2失点。

4対2で最後の大会を終えました。キャプテンには本当に申し訳なかったですね。めっちゃ馬鹿なヤツらをまとめて頑張ってくれました。感謝しかありません。

そいつとはなんだかんだ大学でも共にプレーしてしまうようになりました(笑)





それにしても本当に悔しかったですよ。今考えても人生で5本の指に入るほど悔しい瞬間だったと思います。ここでの悔しさや周りの関係者の支えもあって、進路も悩みに悩んだ結果プロ野球志望届けを提出せずに東北の大学への進学を決意しました。野球の仲間もそうですが、高校で仲良くしくれた友人から応援のメッセージや動画など沢山いただきました。こんな挫折だらけの人間を本気で応援してくれている仲間がいるって思うと、今でも本当に感謝しかありません。今まではただ好きで得意な野球を自分のためにプレーしていただけでした。ですがこの頃から、「誰かのために頑張ろう。」そう思えるようになりました。本当に周りの友人には感謝しています。



地震の影響で入寮の日には新幹線が止まってしまっていたので、飛行機で両親と向かいました。羽田空港まで見送りに来てくれる友人って、本当に感謝しかなかったです。


周りにはすごい選手が沢山でビックリしました。先輩にも、今現在NPBで活躍している選手や社会人野球で頑張っている選手が沢山います。そんな環境で埋もれてしまうのではと思いながら、ただ努力は怠らず貪欲に貪欲に。1年生の秋リーグで初のベンチ入りのチャンスがあったのですが、コロナウイルスに負けました(笑)2年生の春にライバル(私が思っているだけ)と共にデビュー。コテンパンでしたね。

そこからはリーグ戦に入ったり入らなかったり。中途半端な選手でした。ただそんな自分を変えたいと思っていましたが、3年生になる前の冬に点呼後夜抜け出し、レンタカーを借りて遊んでいたことをバレてしまいました。朝起きると全体放送で、「岩井、岩井、至急管理人室まで。」目を覚まして向かうと、レンタカーの契約書。終わった。ここから2〜3週間くらいはずっと寮内の清掃活動に取り組みました(笑)

自分でやってしまった過ちなのに、悔しくてめっちゃ練習しました。スタンドで応援している中、リーグ戦優勝。正直嬉しくなかったです。この時に決めていました。神宮のマウンドは一番最初に上がると。後出しかと思われると思うんですけど、これ本当なんですよね(笑)まぁまさか現実になるとは、最高でした。

ただ全国のレベルは甘くなく、2回1失点でマウンドを降りてライバル(私が思っているだけ)に繋ぎました。そこからの記憶は正直あんまりありません。ただ、情けないピッチングをしたっていう記憶は鮮明です。先輩の全国大会なのに、半端なことをした自分がマウンドに上がっていいのか。色々込み上げてきて悔しくて、夜ご飯の会場で泣いてたことは誰か知ってるのでしょうか?(笑)今静岡に拠点をおくプロ野球球団でプレーしている先輩から唯一声をかけてもらった記憶があります。こんな感じで、不完全燃焼で私の全国大会デビューは幕を閉じました。



全国デビュー戦で初回に失点する岩井。


単刀直入に言うと、4年生になって球速が10km近く遅くなりました。仮にもストレートで押していくタイプのピッチャーだったのに、気づいたら技巧派になっていました。春のリーグ戦では先発もしましたが、秋にはもう投球ができないレベルまで落ちぶれてしまいました。そんな中、仲間は春の全国優勝大学に勝利し全国出場。なんと全国ベスト4という最高の結果を残してくれました。めっちゃ嬉しかったですね。

同級生はもちろん、後輩も本当にカッコよかったです。大学野球は、気づいたら終わってました(笑)




結局僕は、関節唇損傷と腱板断裂というぶっ壊れた肩で投球してました(笑)めっちゃ後悔してます。自分たちの代でも全国で投げていい想いをしたかった。

でも仲間たちの笑顔を見たら、そんな気持ちももう吹き飛んでました。仲間には沢山の感謝を伝えたいです。ありがとう。



終盤まで読んでくれているあなた、とても嬉しいです。ここからはこれからの人生について少し話して終わりにしようと思います。



今までやってきた野球。大学4年生で結果が出なかったため、色々なことを考えました。野球人生に終止符をうって、社会に貢献しようかなとか、お金たくさん稼いで豪邸に住みたいなとか。ただやっぱり野球が好きだったんです。キモイって思われると思うんですけど、中々ボールと離れるのがしんどくて手術しちゃったくらいですからね(笑)両親にも、直接伝えるのは至難の業なんですけどめっちゃ感謝してます。ここに全然書ききれないくらい何百回も迷惑をかけたと思います。でも私を愛して育ててくれてありがとう。そんな両親の気持ちにも応えたくて、もちろん自分も大好きな野球をあと少しだけ頑張ってみようと思います。

この歳になっても競技を継続できるって、当たり前じゃないんだなって思います。ただ人との繋がりを大切に、大好きな野球を全力でプレーします。とは言ってもまだ投球も出来ないんですけどね(笑)


それと同時にトップ営業マンも目指します。

入社のきっかけは僕が所属する社会人クラブチームの紹介ですが、最終面談での会長の話がめっちゃ面白くて、この人の元で改めて根っこを鍛えたいと思ったからです。会長は、子供がそのまま大人になったようなユーモアのあるとても面白い人です。

今現在インターンにて就職先で働いていますが、めちゃくちゃいい環境です。労働時間は長いですが、その分成長時間も長いと思って頑張ってます。2足のわらじになってしまいますが、欲張りな私は野球も営業も全力で頑張っていこうと思います。


周りの友人がプロ野球の世界だったり、社会人野球で活躍していることを聞くととても嬉しいですし、頑張れるんです。野球に限らず、人生の前半戦で出会えたかけがえの無い友人は本当に宝物です。財産です。

プロ野球選手の夢は、頭の片隅に置いときつつ。

新しい夢に向かって頑張っていこうと思います。





こんなに長い文章を読んでくれて本当にありがとうございます。あなたも、私の人生にとってかけがえの無い財産です。あなたの人生がこの先より良い方向へ向かって行くことを心から祈念してます。読んでくれている人は、古き友人がほとんどかと思います。

一言だけ言わせてください。


心の中にある炎を消さないで。

いつまでも子供のままで何かにしがみついて人生を歩んで欲しいです。その中にある火の粉が消えてしまったら、絶対に人生の価値が下がっちゃう。だから常に刺激的で新たな毎日を歩むために、前を向いて。

人生ここからでしょ!


22歳がこんなことをいってごめんなさい。

おいたさんって分かってるんだけど、一生ピーターパン症候群みたいなやつ治らないと思います。

これが僕の本音です。だからみんな、次会うときはまた人生の共有できてない部分を語り明かしましょう。

関わってくれてる人全てが幸せでありますように。


岩井裕貴