霊感がワシにはある…
すると大概「じゃあ
幽霊見える?」と訊かれるので
幽霊よりもキリストが
聖霊によりキリストが
やたらとリアルに見えると
答えると質問者の関心の的が
変わる。
実は
かつてキリストは死んで
地獄に行き
そこから這い上がり甦った方だし
その御體をじっくり弟子達に
見せてから
昇天の場面まで見せてから
永遠の生命者であることを
示されている方だ。
その存在を示す役割を
担っておられるのが聖霊である。
キリストの見方を教えて欲しいと
頼む人は滅多にいない…
不思議な程
いない…
かと言ってキリストを
主と崇めている人の方でも意外と
その方法を知ろうと前のめりに
なって迫る人もまた滅多にいない。
おそらくキリストとの交わりが
当たり前の生活、日常に
なっているからなのではないか。
結構なことである。
それはいいとしても、だ、
幽霊に関心がある人は
別にキリストには関心は
ないようだ。
「いや、関心あるよ!」と
言う方、ならば是非繋がりましょ
なんならコメントしてくだされ。
同様に
キリスト者であっても
キリストを霊視できる賜物に対し
それを磨き上げることも
それを駆使することも求めて
いないようなのだ。
勿体ないとワシは思う。
「そんなことない!」と
言いたい方も是非繋がりましょう
コメントも大歓迎!
さて
幻聴のある人がいて
ある霊媒師に診てもらったところ
この人は時々、全く耳が
聞こえなくなることを打ち明けると、
霊媒師は
幽霊がその幻聴者の耳を塞いでいると
教えてくれたらしい。しかし、
一方
少し耳が聞こえる時は
変な音が時々耳に入って来るせいで
魘されることもあると打ち明けると、
霊媒師は
それは幽霊が幻聴者の
耳元で息をしているのだと教えて
くれたと言う。
幽霊が息をするということは
幽霊は生きていることになる。
ここまで引っ張っておいて
申し訳ないんだが
幽霊がいるかどうかは
ワシには
どっちでもいいことで
見える本人が幽霊から
恐怖を植え付けられてしまって
生きるのに不自由さを
抱えてる場合に限り、
その人から
根掘り葉掘り話を聴いて
感情のシェアをして
交流の輪を
作る。
その程度がワシにとっての
幽霊の存在意義となってる。
しかし、聖霊となるとワシには
どっちでもいいことには
ならない!
そこには我々にとっての恵みが
あるからだ。
生きているキリストが我々
全人類に
生命を注入しておられる現実を
聖霊御自身が!
示してくださる啓示
これこそが恵み深いのだ。
その事を知っているので
こっちから話すのに
無制限になってしまう…
延々と話すワシ。
するとワシ、キリストに
取り憑かれた人間なんだな…と
幽霊に取り憑かれた友と
肩を並べることになる。
霊感というのは要するに
聖書の内容を知ることから
育まれる感性を意味する。
そこで啓示されたキリストに
自分の姿を見出せる。
だから霊感とは実に己を
キリストの中で
発見することなのだ。
いわゆるアイデンティティを
確認できる類のものなわけ。
以上言外でワシが伝えようと
している事柄は
改革教会の知恵として
聖霊は聖書と共に働かれる事
この大事な教義のおかげで
ワシにはキリストが
取り憑かれているという
嬉しい現実をも自覚できるのだった…