こないだ、一年間、得意になって使っていたスマホの画面を割ってしまった。
画面の割れ方を見て、「踏んだんだ」というサル。「え、でも、踏んだ記憶がまったく無い」と、他の原因じゃないかといろいろ探っていたら、サルがイライラしてきて、私が何か言うたびに、「踏んだんだよ」と、聞こえるような陰口を次郎に。
ソフトバンクのsimが入る、もう一台のスマホはサルが使っていて、「外出するときは、それを使えばいいや」と、簡単な結論を出していたけど、普段、ソフトバンクsimでエクスぺリアを使っていて、そのスマホには入れていないサルは、すごいイヤそうな態度。
訊いてみると、「使わせるのはイヤだ」ということ。
そこから、延々言い合い。サルは、「お母さんが踏んだと認めないのは、僕の言うことを馬鹿にしているから」で、「踏んだと認めないからには、また、注意しないに違いない」「気を付けると、一言いえば、使わせるのに、なぜ言えないんだ」とわめく。
てか、私の言うことはみんな「それはお母さんの我儘でしょう。僕に合わせろって言うの」ってことで。
そういうことになるたびに、私の方は、「もうオマエなんか見たくない、出てってくれ」となる。
子供のころ、私には、毎日のように、父親に「はい、と言え」と責められていたことがあった。私が「お手伝い」をしないということで、毎日のように母親が父親に言いつけ、というのは、3つ言われると、確実に一つ、悪ければ二つを、忘れてしまうからで、意図的にサボってたわけではないんだけど、頼られた父親が、じゃあ自分が叱ろうということで。外で、目いっぱい働いて帰ってきて、叱る、なんてさらに疲れる難しいことをやらなきゃいいのに、「俺は疲れてるんだ」と断ればいいのに、馬鹿が引き受けて、「わざとサボった」という情報なんで、「もうやらない」ことにさせればいいと頑張るのだけど。
私は意図的にサボってないし、忘れてしまうんだから、「もうやらない」とは言えない。だって、「やった」わけじゃないから。なので、責められながら、じいっと押し黙ることになる。延々と続く説教。意図的ならば、心を入れ替えれば何とかなるんだろうけど、そもそも意図的じゃないんで、心なんかじゃどうにもならんわ。また「やる」の、決まってるし。私がまあ、元々生真面目で責任感が強い(責任感が強すぎる奴って、結局すべての責任取りきれない現実に、すごい責任感が無いように振る舞うことがある。そのパターン)ので、やることになるだろうことを自分じゃどうしようもないのがわかっている。で、「もうやらないな」というのに、「はい」とは言えない。
母親が馬鹿だったせいで、父親の体力と時間と気分、えらい損失だわ。一日働いてきた人を、休ませてやろうって発想はないのかね。ほんと、「男親の子育て参加」って何?って思う。結果、殴るしかないことになるだけじゃない。
私も、終いには叩かれた。で、泣くと、母親に「泣けばいいと思って。女のイヤなとこだ」って、女のイヤなとこ満載なのは、同居している自分の親や妹に遠慮して、子供にばかり厳しく当たる、へこへこ癖のついたアンタでしょうよ、と、その時は当然思いつかなかったけど、今は思う。妹なんか、幼い頃、「母親は鬼だ」と思ってたらしいし。
ろくに子育て出来ないクズ母とか、その結果のニートで朝から晩までゴロゴロしてるだけの妹とかに気を使って、どこまで弱いのよ、って感じ。私だったら、「おまえらみんなクズ。ちゃんと結婚して子供育ててる私の爪の垢煎じて飲め」って言ってやるわ。大の大人がゴロゴロしている家で、幼い子供が仕事しないから責めるって、ほんと何?。
言いたいことも言えない弱い奴って、ほんとゴミと思うわ。
そういう子供時代の家から逃れて、わが子が自分そっくりなので、自分そっくりの行動に、私の親同様に「わざとだ」と怒るワンちゃんを抑えて、「この子にはそこまでのアタマがないから」と、無理なことは要求しなかった私。
優しく育てたら優しい子になる、というもんだと思ってたけど。どうも、単に、「自分のしてもらった扱いは意識してないから、他人のアラを容赦なく糾弾する」ようになったというだけだ。「人間は、やられたようにやる」というのは、嘘だと判明。むしろ、さんざんやられた私の方が、思いやりはあったわけで、「社会のための教育」としては、「ダメな奴は、言いがかりでも勘違いでも、叩くのが正解。少なくとも、そこがダメとわかるし、自分がイヤなことをされた分、思いやりが育つかもしれない」ということなのかも知れない。
で、私が情けないのは、「子供が、イヤだった自分の親のように、責め立ててくるようになるとは」ということだ。サルの言い分は、「ボクはバカには言わない。お母さんはバカじゃないでしょう?」ってことで、それ、外でその「馬鹿」に言ったら、自分に返ってくるし、だいいち、そいつを避ければいいことだけど、家では「母親さえ治ってくれれば、自分が快適に暮らせるのに」ってだけじゃねえ? 誰が治してほしいって言ったよ。
というわけで、子供たちが幼いころには、「子供たちと一生そばにいたい」というのが望みだった私だけど。責めたてられてると、「一生、これやられるのか」と思う。ウンチもらしても、文句も言わず拭いてもらえるだけの老人ホームの方がずっと良さそう。世間の人たちが、子供と同居したくない、早く自立してほしい、って言ってるのが、よくわかるわ。
うちって、結果が出ない教育費をかけてないから、そこそこの老人ホームに入れるお金はあるんだよねえ。世間の、塾だ、習い事だ、公立も入れない学力なのに大学だ、と、子供に教育費かけてる人たちの老後まで、税金で面倒みてやることないわ、と思う。パチンコだの飲酒だの競馬だの教育費だの、バカみたいなことに使った人たちが、老後に困っても、お金をみんな遊びに使ったのが悪いんじゃないかな。「教育費」だって、結果につながらないんなら、遊びと同じだし。
こないだまでは私も、「人生のほぼすべてを育児にささげた結果、老後も楽しく家族と暮らせるわけだから、収支は合ってるのかも」と思ってたけど。今は、「自分だけのこと考えたら、やっぱ、家族よりカネじゃねえ??」と思う。漏らしたって責められない暮らしの方がよさそう。
スマホの話だ。
そのサルが幼稚園の頃、周りはみんなケータイを持っていたけど、私は持っていなかった。お金がかかるから、もったいないと思ってたからだ。一銭の稼ぎもないんだからってことで。周りの人たちだって、パートくらいの人ばかりだったけど、自分が質素だからって、そうでない人をうらやむとか、非難する気持ちが全然起きてこないキャラだから、気持ち的に問題はなかったけど。平気だったからと言って、「家庭第一に自分は質素にする」のって、楽しいわけじゃない。
いま、中村うさぎ先生の本を読んでて、「ほんと私と違うなあ」と感心してるんで、その話を少し。うさぎ先生の本を読んでると、どうして違うんだろ????と思えてくるし。
人との競争心がないのは、多分、幼い頃から学校などで「普通とは違う子」「トロい子」「妹キャラ通り越して赤ちゃんキャラ」の扱いだったので、そもそも、競争心が育つ余地がなかったせいかも。つまり、「同じ女の子」じゃなく、「クラスにパンダがいる」ような扱いを受けていたわけで、例えパンダがプラダを持ったとしても、「プラダを持った女の子間の競争」に入るはずがなく、誰もプラダ持っていることなんて気にならない、なんでパンダがここにいるのか?と考えるだけだ、というような感じかと思う。
過去を思い返すと、目立つなんて生易しいもんじゃない、学年ほとんどとか、大学に至っては、学年も学部も違う人達の宴会の話題に貢献したほど(私の話で、やっと共通の話題になって盛り上がったと言われた)で、まあ、それが、目立つためにわざわざ何かしてるわけじゃないのが周りの人たちにもわかるんで、ディスられることもなく、むしろ周囲に面倒見てもらって暮らしてこれたんだろうけど。
で、私がケータイを持ったのは、うんと普及してからなんだけど、そのあと、すぐにサルはスマホを与えられ、ネットでつなぎ放題の生活になった。中学生だったかな。稼ぎもないのに。家事はやってたし、少しは家の資産を増やした(株で)私も持ってないのに。息子に、自分よりずっと先にスマホを、しかも最新式の奴を持たせてやったわけだ。で、自分は、ガラケーを使っていた。
私がスマホを持ったのは、一年前だし。こないだなんか、出先で、「画面に出る電話番号を押すとそのまま電話できる」と夫に自慢してたし。そのスマホのディスプレイを割ってしまい、メインで使ってるsim入りのスマホの他に、もう一つ自分のだと思ってるのがあって、私の分のsimを入れれば、外で通信ができるのに、「大切に使ってるものだから、使わせたくない」と言われるとは思わなかった。
で、「そしたら、外で地図とか見れないし」と言ったら、「どうせ見てもわからないでしょ」と。自分のだと思ってるスマホの心配の方が、つなぎ放題できる契約のsimがある私が、ガラケーしか使えない状況になることより上なのかと。
彼のことばかり心配して過ごしてきた人生が馬鹿らしくなったし。私の人生は安いものだろうけど、そこまで安く見積もられる筋合いじゃないと思う。人生の半分くらいは、彼のために使ってたようなもんなのに。
我が子のため、家庭のため、と何の贅沢もせず、新しい服の一枚も買わず(子供のお下がりを着ている)、生きてきた半生を振り返る(大学時にすでに「見かけが派手なのに異常に古風とあきれられていたが。確かにこれって昭和的だな)と、スマホごときに負けて、思い返すたびに涙がにじんでくる。
人間の労力と時間を、育児に使うか、金儲けに使うか、っていうのは、現代の大きな過大なわけだけど。「先祖への借りを返すってことを無視して、自分一人の人生の心地よさだけを考えたら、金儲けの方が上かも」というように揺れがちな、この頃の私でした。