ひとの悪意にひきつけられて、悪口で盛り上がっているところを覗いてしまうことがあります。ネットの炎上とか。たいていは読んでる途中でおなかいっぱいになってしまいますが、それでも懲りずに見てしまいます。

誰かの怒りやいじわるな気持ちがどこからきているのか、よく想像してます。


わたしも人間なので、誰かに反感を抱くことも、嫉妬することも大いにありますが、口にすることも文章にすることもあまりありません。

それは善人ぶっているわけではぜんぜんなくて、単に自分のプライドの高さがそうさせているだけなのだと思います。自己愛のたまものです。

悪口を言ったら周りの目に醜く映る、汚い言葉を使うとひとから嫌われる、という意識がずっとあります。

(少なくとも、こちらに悪口をふってくるひとは、わたしのこともどこかで悪く言っているんだろうなあと思う)


また、悪口の中身は自分のコンプレックスと直結している気がして、それをひとにさらけ出したくないという思いもあります。


そういうのを見せてもいいか、大丈夫か、と思うときだけ、わたしも不満や嫉妬を丸出しにしています。



誰かを攻撃するとき、ひとは無意識に「いままで自分が言われて傷ついてきた言葉」を選んでいるのではないでしょうか。


ひとの外見を攻撃しようとするひとは、自分も外見について攻撃されたことがあるのでは。そしていまでもそれに深く傷ついているんでは。

外見以外でも、たとえば育ちのよさとか、家柄とか経済状況とか、個人の能力とか、悪口はいろんなバリエーションがありますけれど、

「ばかって言ったほうがばか!」とは言い得て妙で、

悔しくてとっさに「ばか!」と言ってしまうひとは、「自分はばかって言われて傷ついたことがあるから、他のひともばかって言ったら傷つくはずだ!」と思って、「ばか」を選ぶんじゃないかと思うのです。


職業柄いままでもよく野次を受てきました(笑)しかし、

「ぶす!」

とか言われてもわたしはそんなにダメージがありません。

間違っても自分の外見が優れているとは思ったことないですが…不思議と容姿についてあれやこれやと言われても聞き流せてしまうのです。あなたの好みじゃなくて悪かった、くらいの感想です。

そして思い返してみると、うちの母親は子どもの外見を悪し様に言ったことがないんですよね。たくさん喧嘩してきましたが、冗談でも不細工だとかは言わなかった。

当たり前だと思っていたのですが、そうでもないようで。

おかげさまで、わたしはひとに腹が立ったとき、「ぶすのくせに!」という発想にはいたらない人間に育ったようです。これは両親のおかげなんだろうな。容姿という項目は自分の価値判断の中でけっこう低いところにあるみたいです。

そんなわたしが言われて傷つくのは「そんなこともわからないの?」ということばです(´ω`)ひとに嫉妬するときも、ひとを見下すときも、そういうところが基準になってる気がします。学力コンプがこんなとこに出るなんて。

そして、心底不愉快に思ったときにとっさに出る行動が『無視』なので、ひとに相手にされない自分、というのもコンプレックスなのでは、と自分では解釈しています。


価値観というのは環境が育てるものなのでしょう。

子どもに野次られると、「この子は家でこんなこと言われてるのかなあ」と思って、そっちに気持ちを持ってかれて泣きそうになることもしばしば。

自分が子どもを育てるとき、冗談でもプライドを傷つけるようなことは言わないように気をつけようと思うのでした。

このままだと将来平気で自分の子どもに「お前おもんない」とか言いそうで…。それはあかん。

そんな詳しくないけど、きゃりーぱみゅぱみゅさん割と好きです。かわいい。



去年まで、ばりばりと仕事をしているときは、毎日スーツスカートとシャツとカーディガンといういでたちで出勤していました。

その縛りの中で、個性的なシャツやカーディガンを着たり、かわいい腕時計をしたり、雑貨屋さんで見つけたおしゃれな靴を上履きにしたりするのがちょっとした楽しみでした。

ジャージやポロシャツ買うのに情熱かけてた時期もありました。ゴルフしないのにゴルフシャツ見に行ったりな…かわいいんだ。


私服を着ることが月に数回で、あんまりそこにエネルギー費やせなくて(それでもついつい買っちゃうんだけど、買って数週間紙袋から出さないこともしばしば)、この春引越ししたときにクローゼットの中身が学生時代のものとあまり変わっていないことに驚きました。


今年職場が変わって、多くの同僚がジーパンTシャツで授業していることにとまどいを感じながら、いまだ仕事ではスーツを着ています。なんとなく、シャツも何もかも無難な格好しかしていません。

服装自由なのにおしゃれする気になれない、というのはきっと、フルタイム勤務じゃないからなんだろなあ。服選びは自己愛の表れだと思う。去年までは生活の中心が職場だったから、その場で自分をよく見せたいという気持ちがあったんだなあ。ちょっと恥ずかしい。でもけっこうほめらて嬉しかった…。

最近は、家に帰って私服を着るようになりました。


お洋服を選ぶのは楽しい!

ただ去年まで好きで通っていた店からちょっと足が遠のくようになりました。

自分の年齢を意識するようになってきたからでしょうか…。どうも、いままで好んできてた服がしっくりこなくなってきて、変な感じです。

金銭的な理由から、着るものを一気に全部代えることはできません。でも新しい服のほうがいいように見えてしまって、古い服ってどんどん着なくなっちゃうんですよね…。困るなあ。ブラのサイズがかわって昔のが全部つけられなくなるのと感覚的に似ている…。


お化粧は、肌(特に目の周り)が弱いので、日頃はベースメイクしかしておりません。調子が悪いと日焼け止めしかつけられない。その割に近年肌ほめられることも多いのですが。負担が最小限だからかしら。

肌がつよい人間だったらアイメイクばりばりやってみたい人生だった。絵を描くのと似ててきっと楽しいですよね。お化粧がへたくそなので、化粧後もほとんど顔変わらないから超つまんないです。

この6年間ずっとスキンケアからコスメまで全部イプサに頼りっきりなので、イプサのアイシャドーばっかり増えていきます(´ω`)減らぬ…。


もういい年だし、外見をもうちょっとなんとかするべきか、でも自分の好きな格好落ち着く格好したいし、という葛藤。最近ツモリのかんわいいマフラー買いました…。赤のチェックにゴールドのねこちゃんがついてるの。歳考えろ!ってかんじだけどやっぱりこの路線が好き。だめだやめられない。もうショーパンとかはかないほうがいいんだろうか。いやでも…。



急になんだと思われるでしょうが、最近知り合った方々がけっこうハイブランドとか詳しくて、生活水準が違うのね…とちょっとうらやましくなってるこのごろなのです。でも似合わないものを背伸びしたってしゃーないしなあ。

悩むお年頃です(あらさー)。

すきになる ということは

心を ちぎってあげるのか

だから こんなに痛いのか

(工藤直子「痛い」)


きのうのきょうでさっそく更新をする(´ω`)


きのうは酒を飲み明かして、恋の話をしました(笑)


アラサーと呼ばれる年齢になってくると、やっぱり身の回りには婚活をはじめるひとが増えてきます。まだ30未満だからぜんぜんあせる歳ではないのですが…(いやわたしは結婚はやかったのでこの発言は無責任かもしれない)

合コンからパーティーまでさまざまですが、わたしは身の回りのひとたちがそういう類のものに出向いて落ち込む姿ばかり見ているのでなんともかんとも~と思っています。


交際相手を探すという前提で出会う場というのはあまりよい結果を生まないのかな。向いてるひととそうじゃないひとがいそうです。
婚活では恋がしにくい、という話。
自然な出会いを求めるなら趣味のサークルなりに入ることだという結論が(笑)


恋愛の好きとそうじゃない好きの区別がつかないなあ、という話を最近別の場所でしたとこだったので、「好きの気持ちは最終的には尊敬」みたいな流れにすっと納得がいきました。
いわゆる理系男子は自分の話をあきらめずに聞いてくれる女の子が好き、という話で、やっぱり恋と承認欲求はよく似てるのではと感じます。

他の誰でもなく、自分を見てくれるひとがほしい。


それを考えると、男女とも声に出して相手を認められる(もっと言うとほめられえる)ひとがもてるのもうなずける。
素直に、あなたといると楽しいとか、あなたがこうしてくれてうれしいとか、あなたがいないとさびしいとか。
恋愛じゃなくても、そういうこと言われると、わたしもあなたが好き!って、すぐなってしまう(笑)
求められるってなんて幸せなことなんだろう。


でも束縛は苦手~(´ω`)八方美人


ところでわたしのログイン画面ではmixiのタイムラインにこのブログが出てこないのですが、反映されているのでしょうか…?されてないなら気にせず連投しよう。

主婦みたいっていうかたぶん主婦なんですが、主婦みたいな顔でブログ更新。

新しいパソコンを買い、久々にスマホではなくパソコンでネットをして、アメブロのことを思い出しました。ご無沙汰しております。


近況報告


①引越しました

昨年夏に大事故を起こし、長距離運転を伴う別居婚やもうやめようという話になり…今年度から旦那さんと同居がスタートしました。入籍したのがおととしの夏なので今更感でいっぱいですが、私が就職してから5年間遠距離だったので週末会いに行かなくていいというのはかなり不思議な気持ちです。
現在は京都市内に住んでおります。
大学の4年間を京都で過ごしたものですから、勝手知ったるという感じで…。昔みたいに自転車で爆走したりはしませんが。主な交通手段は車です。事故らないよう気をつけます(´ω`)
掃除魔と散らかし魔のハイブリッドを自称しとるのですが、旦那さんが片付け魔なのでおうちはとってもきれいです。生活がクズなわたしは、今この歳になってしつけをされています。ものは出したら片付けようね、とか、そういうレベル…。
すでに何人も泊まりにきてくれていますが(笑)遊びにきてください。冬は鍋しましょー。


②転職(?)しました

引越しと同時に前の職場を辞し、いまはこっちで学校の非常勤と塾をかけもちしています。来年から学校でフルタイム勤務に復帰する予定ですが、今年度とてつもない物足りなさで、ちょ、はよ仕事…という気持ちです。
塾で勉強を教えるのはとても楽しい。特に数学。やっぱり数学と国語はとてもよく似ている。でも受験対策とかはわたしはまだまだ甘いです。





週三日お休みがあって、夜もしっかり睡眠がとれて、ものすごく時間を無駄にしている気がしてたまに焦燥感にかられます。その割にいい仕事をしてるとは思えないし…。
せっかく時間があるんだからー!とやりたいことに少しずつ手を出して、あれもこれも中途半端になっています。
これから先は、読むことと書くことをたくさんしたいと思っています。
今年度本を50冊読む!と春先生徒に宣言したのですが、結局7月からしか本が読めず、まだ12冊…もうちょっとペースをはやめよう。


このごろ、大学時代をよく思い出します。あのときも、空いた時間によく考え事してたからかなあ。単純に京都に戻ってきたからかなあ。好きな音楽とか本とかを振り返っているからかなあ。
仕事や子どものことで頭がいっぱいだった5年間、自分のことについて考えることが減ってたから、いろんなひととおしゃべりしていて最近悩ましくも楽しいです。
書きたいことがたくさんある!
書きまとまったら、また更新します。
(更新頻度が上がりそうだったらmixiとの連携は切ろうかと思ってます…)

高校生のとき、森博嗣の小説を病的に読み漁っていた時期があります。当時からネットやプログラムの蘊蓄がずいぶんでてくるところがとっても好きでした(中2こじらせていたので)
そんな森博嗣作品でわたしが一番好きな犀川・萌絵シリーズの『幻惑の死と使途』に出てくる一節が、Twitterを予言していると話題になっていました。


http://matome.naver.jp/odai/2133786277844538201


わたしが初めてウェブサイトを持ったのは中学1年生の終わりごろ。当時は作り手と読み手が2:8くらいだったのではないでしょうか。何かつくれば反応がもらえるすごい時代でした。見ず知らずの人からほめてもらえる快感をあの年で知ってしまったことで確実に人生狂ったと思います。
だって毎日300人くらいの人が自分のサイト見に来て、ちょこちょこ感想くれるのよ…。
「自分のウェブサイトの掲示板で、自分のファンになってくた人同士が知り合って交流していく」
何かすごい人になったかのような勘違いをします。ただただ作り手が少なかったことと、まだ若い人間が珍しい世界だったことで、当時のわたしはちやほやとされていました。年をとるのがいやだった。「『若いのに』すごいね」と言われいてることを自覚していたからです。
いまはネット総人口が増えたから、「自分のファン」という感覚はもう簡単には得られないんでしょう。今や1日300アクセスなんて珍しくもなんともないし。このブログもこんな更新頻度なのに毎日50くらいはアクセスがあります。


SNSの登場で、誰でも登録ひとつで「自分のページ」を持てるようになりました。
弊害も生まれます。それは「自分の話を聞いてくれる人の不足と、それによる満たされない気持ち」や「聞き下手になること」です。


子どもを見ていると、『こっちを向いてくれる人』にどれだけ飢えているかよくわかります。それは20代の人々も同様です。
さびしさの自覚とでも言うのでしょうか。
自分が書いたことに対して反応がないと「無視された」と孤独を感じてしまう。書かなければ「無視される」こともないのに。何かを作ることで孤独になる可能性がある状況に自らを置いてしまうのですね。


Facebookやtwitter、LINEなどのタイムラインに投稿するのは、話を聞いて!反応して!と言っているのと同じだと思っています。イイネやふぁぼ、スタンプの数が多いほど満たされるという気持ちはわかります。たくさんの人に相手されてる状態を、他の人に見せることがきっと快感なんだと思います。自尊心を満たすひとつの方法です。


そこに、一対一関係では満足できないいまの子たち(大人もか)の現状を見ているような気がします。自分のわからない話になると、突然会話に関係ない「わたくしごと」をでかい声で言ってみる人がよくいます。うまくいけば会話をぶったぎって自分の話にできるし、うまくいかなければスルーされて凹みます。まあ往々にしてそういう人はあまり歓迎されません。

あれに遭遇すると「この人にとっては会話はタイムラインなんだなあ」と思います。
人の記事がもりあるとうらやましくなって、自分の記事を上げる。
自分が「主」(話し手)じゃないとおしゃべりができない。


会話って本来相手がいて成り立つものですが、こういう聞き手にまわれない人は会話がへたくそです。授業をしていて、話が聞けない人、会話の順番が待てない人、自分のことばかりしゃべる人、いっぱい出会います。これはウェブの「自分のページ」感覚が染みついてしまった結果なのではないかなあと思います。ツールに罪はないけど、上手に付き合っていかないとちょっとつまらないですね。


わたしは声でするおしゃべりは一対一の方が得意です。
その方が相手の心をつかむこと手応えがあるからなんだと思います。
みんな、「自分のことだけ見てくれるひと」に飢えています。誰もが発信者になれる時代に、敢えて自分の話をちゃんと聞いてくれるひとが、欲しいんです。自分が特別必要とされたいと、誰もが思っているはずです。特に子どもは。


なるべくひとりひとりに「あなたを見ているよ」と言いたい。
出会う人数が多いし難しいけど、さびしそうなひとを見つけるたびに、そういうことを考えます。

ここ更新しなくても地味にアクセスがあるので一体何人RSSに放りこんでくれているのだろうと思っていたら、年賀状にブログ見てるって書いてくれた人が数名いました。なんてことだ。すみません年賀状4日に読んで今日やっと返事出したので届くのちょっと遅れます…。年賀状用意してましたが寒中見舞いにしました。


気付いたらLINEのタイムラインばかり更新しています。やっぱり見ている人数と層がわかっているほうがなんとなく書きやすくって…。ブログって自分の中でちょっとかしこまった場所なので、落ち着いて文章書けるときにしか更新できないんですよね。日記的な内容はTwitterでじゅうぶんだしなあ。
でもまたこっちに比重を置こうかなあ。mixiともつなげてるし。むしろmixi更新してる人が少なくて書きにくいというのもある…。一覧埋めてしまいませんように。


ひとに見てもらう前提で文章を書くことについて。

先日後輩ちゃんに、
「Twitterに○○って書いてたのを見て、誰かに助け求めてるんかなって思いました」
と言ってもらいました。
ちょっと愚痴のつもりで書いたのですが、いま思うと確かにそうだったのかもしれません。ほんとの愚痴ならみんなの読めるところに書く必要はなかったはずです。困ってたし、助けてほしかったのかもしれない。実際リプがあってほっとしたし。


基本的にウェブに書かれたことばは社会的にも感情的にも「ひとりごと」ではありえないんですよね。自分は書き手であり、読み手も必ずいます。書き手はどうしても読み手を意識します。意識すべきだと思うし。
「どうでもいいこと」と思われてしまいそうなレベルの「つぶやき」だって、誰かに見てほしいから書くんです。「ねむい」「つかれた」「うおおおおお」には、「がんばってるね」「どうしたの?」「なになに?」って反応がほしいのだろうし、反応がなくても、誰かに自分の状況や心情を知ってもらうことが重要なんだと思います。


わたしは文字媒体では1対多数が好きで、1対1のやりとりが極端に苦手です(おしゃべりはまったく逆ですが)。だからLINEは圧倒的にタイムラインのやりとりがはかどるし、メールとかぜんぜん続かないし。ほんとごめん。

うまく言えないけど、多数の人間に読んでもらう方がなんとなく満たされるんだと思います。
こういう現象にもきっと名前がついているんだろうな…。そういうのすごく知りたい。


ウェブでいろいろ書きすぎてしまうことに関して、「露出狂」「そういう癖」とかいう発言も飛び出ますが(笑)言い得て妙だと思います。そうそう。見てほしいから書くんです。書いて、目立って、認知されることがきもちいいんだ。そうじゃなきゃ書かないよ。こんな長文も。


だからみんなも書けばいいのになー。
mixi全盛期はみんなの病んだ日記読むの大好きだった。みんな病んでた(笑)。そしていろんなことを悩み考えていた。

フェイスブックは流れが速過ぎるのと見方がわからないのとで、たまにしか開きません…。それにあそこリア充的な書きこみしか許されない空気あるからこういう記事上げられないのよね。
いや、学生時代ほどひまがないからみんな書けないんだろうけど(´ω`)

「授業は楽しくあるべきか否か」というテーマで旦那さんと激しく議論を交わしたことがあります。



私は授業は教える側が興味づけをしてやることで、子どもに「勉強って面白い」と思ってもらえたら嬉しいと考えています。
それは自分自身が勉強を苦痛に思っていたからです。国語が楽しいなんて思ったの、大学に入ってからですからね…。池田修先生の授業を受けて、「こんなふうに教えてもらったら自分も国語好きになれたのに!」と感銘をうけ、その流れでいまの職についています。


一方旦那さんは「勉強は勉強自体が面白いのであって、演出して楽しくするようなものではない」という主張をされていました。
彼は幼いころから勉強が趣味、「知らないことを知るのがとにかく好き」であり、「勉強できない人の気持ちがわからない」人でありす。ほんまかしこいです。それなのにあほなわたしにはあまいという。ははは。


はたして何が正しいのか。


授業をしていて正直今日のは失敗やったなーと思うときも結構あります。


一年目のときは「この子らの一時間は、一年は、一生は、自分にかかっている!」というすごいプレッシャーの中、まあ見事に授業崩壊して、ほんとにつらくてでも誰にも弱音が吐けなくてひとり職員トイレにこもって泣くような毎日でした。たぶん一生忘れません。

でもわたしのせいで受験に失敗するようなことはなかったし、その子らの一部は今年無事大学生になってるし、そこまで気負うこともなかったんだなあと今は思います。

二年目から気楽になって、好き勝手するようになってからは授業がすごく楽しくて…この年のこともきっと一生忘れません。回覧作文とか、思い出アルバムづくりとか、批判文の批判をするとか。読み聞かせを始めたのもこの年です。いろいろさせてもらった。かしこい学年だったなあ。受験がんばってね。


今年ははじめて4月から「国語なんてだいきらい!!!」という学年に当たり、かなり苦戦しています。なんだかんだ言って今まではクラスの大半が国語好き!で上がってきてる子たちばかり相手にしていましたので。
こうなってしまうと、やっぱり「国語って楽しいんだ~」と思わせるような演出が必要な気がするのです。それが本質ではないにせよ。
おかげさまで、一学期散々聞いてきた「うわ次国語や最悪」みたいな聞えよがしな声は二学期に入って聞いていません。寝る奴をどうするかが次の課題です……。


すべてをお膳立てしてしまうのは彼らのためにはならないけれど、どこかで学びへの意欲を持たせたいと思います。きっかけだけは与えてやりたい。そこから勉強するかしないかは本人たち次第です。

いわば義務教育は「学問との出会い」の場なのではないでしょうか。出会わなければ恋もうまれません。学問に惚れるかどうかはわからないけど、よい出会い方をして、一生添い遂げてくれたらそれは嬉しいことです。さすれば教師はお見合いばあさんみたいなもんでしょうか。ホホホ。


今後も、国語ちゃんをどう魅力的に見せるか、腕の見せ所です(´ω`)

8月末に大事故を起こして更新が途絶えておりました。

高速道路で車を廃車にしても生きています。へへ。単身事故でよかったです。



昨日整体に行き、4月ぶりに担当の先生に診てもらいました。

「これは最近の患者さんの中でも特にひどい部類」「よく生きてるな」「かわいそうに」「まじか」「でも僕が何とかします!大丈夫!」を連発された施術でした。特に「まじか…」は多かった。触るたびにうまくいかなかったみたいで。



症状としては、首回らない、両腕がほぼ上がらない、脳脊髄液が流れてない、自律神経とホルモンバランスがおかしくなってる、などなど。

次回は頭蓋骨の矯正をしてもらうことになりました。

施術のあと「10分寝て帰ってください」とそのままお布団かけられ寝かされました。こんなのはじめて。



整体師さんのすごいとこは、触るだけほんとにいろんなことがわかっちゃうことです。胃を触るだけで夏バテ、喉を触るだけで気管支炎がばれる。

今回も、睡眠が浅いこと、数時間おきに目が覚めること、電池がきれるみたいに眠りにつくこと、生理不順、栄養ドリンクに頼って生きていること、情緒不安定、なんでもかんでもばれました。はあああ…。

ここんとこ情緒不安定なのも、事故→身体にストレス・骨歪む→自律神経乱れるという流れからきてたものだったみたいです。ほんと最近すごい人間不信。好きだけど、もう信じない(´ω`)いいのもう。誰にも頼らずに生きていく。そんな域。身体がほぐれたら心もほぐれるのかしら。



もし転職するなら整体師になりたい。

私の好きな整体師さんは皆すごく勉強熱心で、いつも研修で得た知識を嬉しそうに試してくれます。おもしろい。



「あんましちゃろか」というのは私にとって魔法の言葉です。

いつも喧嘩してしまう母親ですが、「肩もんじゃろか」と言われたときだけ、私は素直に「うん」を言えます。母親に肩をもんでもらうってだいぶ親不幸ですけど…。

子どものときからずっと、私は母への他の甘え方を知りません。

自分が生徒のストレッチとかを面倒みたがるのも、きっとそういう認識があるからなんだろうなあ。相手を甘やかしたいときの最大限の表現がマッサージなんだろう。

お盆が終わりました。

自分の実家→敦賀→旦那さん両親の実家
と移動しました。

海水浴×2
花火×2
花火大会観覧×1(ちょっと見ただけだけど)
バーベキュー×1

すごい私リア充みたい(☆∀☆)
体力の消耗が激しく昨日はたっぷり寝ました…。コミュ障気味な私にはなかなかハードルの高い1週間でした。

長距離ドライブできたのはよかった。車でともかくラーメンズのコント流しまくって走りました。

あ、あと日焼けしました。腕がこんがりと!肌弱いからあんまりふだん日に当たらないようにしてるしやけど状態になることも多いのだけど、今回はこんがり。これもちょっとうれしい。

お盆の終わりに旦那さんに「失敗すること前提で失敗後の対策ばかり考えるのは感心しない。成功する可能性を少しでも上げるために努力すべきだ」と正論をぶつけられました。逃げの姿勢を見透かされてました。
私は自分の人生、たいした努力もしてこなかったということも、痛切に思い知らされました。
やっぱり勉強しなきゃだめだ。
努力をしていない私の言葉にはなんの重みもないんだ。
二学期へのモチベーションがなかなかわかないのも正直なとこなんですが(こんなん初めてや…いつもはこの時期授業したくてたまらんのに)部活に関しては新体制もちょっと楽しくなり始めたのでとりあえず前向きに。

昨晩Twitterさんで前任校でずいぶん気にしてた子のアカウントを見つけて、フォローしていいかなあいやがられないかなあとずいぶん迷って結局しなかって。こっちから子どもをフォローしたことなどないので気が引けます。
まだ覚えてくれているかなあ。
ぼんやり。
あのころ仕事しんどかったけど、がんばってたな。ひとりで悩む必要もなかったし。同僚の存在はおおきかった。私のこと(意味はどうあれ)笑ってくれるひとがほしい、欲を言えば一緒にふざけてくれるひとがほしい…。それを同僚に求められないからって生徒に求めてしまったのが、いまのしんどさの原因なのかもしれない。特にこの数ヶ月、結局子どもの社交場に私が足を踏み入れることは出来ないんだとよくわかったので。
息がつまる。

主役になりたがる大人が苦手だ。
学校の主役は子どもがいい。
主語を自分にする大人とはあわない。
自分がそうなってしまわないように気を付けよう。

変わっていってしまうのがさびしい。
いやに感傷的なのは夏だからでしょうか。もう休みが明けたら春になってないかしら。知らない間に全部いい思い出になってたらいいのに。
自分のことを知っている人がいない場所に行きたい。
なにかとてつもなく嫌な目にあったとか、そんなことはまったくないんだけど、なんとなくそういう気持ちです。

ただぽっかりとしているだけです。



昨日すっごく久々に国語の授業準備をしました。一学期は去年やったことをついつい使いまわしてしまったのですが、毎年子どもが違うんだから、同じことをやったところでうまくいくはずがなかった。反省しています。
二学期以降は活動を増やしたいです。黒板うつすだけの授業なんて何も面白くない。私が面白くないもの。というか私が面白くなくて誰が面白いんだ。



数年前に半分まで読んでた「ステップファザーステップ」を最後まで読みました。ほんわか!なんてかわいい話なんだろう。ドラマは一切見てませんでしたがどうだったんですかねー。面白いなら見たいなあ。



先日おすすめしたドラマ(世紀末の詩)をとある生徒が見てくれました。自分が好きな物に触れてもらうってめちゃくちゃ嬉しい。なぜなんだろう。
愛ってなんだろうねーといっしょに考えてみたり。

新しい居場所が、ちょっとずつできつつあります。凝り固まった心も、この暑さでとけていっているのかもしれません。私ができることをもう一度探しなおそう。

いままでの居場所がなくなっていくようで、それもさびしいことではあるのですが。



さて、明日から実家です。
ぽっかりを何で埋めよう。