ひとの悪意にひきつけられて、悪口で盛り上がっているところを覗いてしまうことがあります。ネットの炎上とか。たいていは読んでる途中でおなかいっぱいになってしまいますが、それでも懲りずに見てしまいます。
誰かの怒りやいじわるな気持ちがどこからきているのか、よく想像してます。
わたしも人間なので、誰かに反感を抱くことも、嫉妬することも大いにありますが、口にすることも文章にすることもあまりありません。
それは善人ぶっているわけではぜんぜんなくて、単に自分のプライドの高さがそうさせているだけなのだと思います。自己愛のたまものです。
悪口を言ったら周りの目に醜く映る、汚い言葉を使うとひとから嫌われる、という意識がずっとあります。
(少なくとも、こちらに悪口をふってくるひとは、わたしのこともどこかで悪く言っているんだろうなあと思う)
また、悪口の中身は自分のコンプレックスと直結している気がして、それをひとにさらけ出したくないという思いもあります。
そういうのを見せてもいいか、大丈夫か、と思うときだけ、わたしも不満や嫉妬を丸出しにしています。
誰かを攻撃するとき、ひとは無意識に「いままで自分が言われて傷ついてきた言葉」を選んでいるのではないでしょうか。
ひとの外見を攻撃しようとするひとは、自分も外見について攻撃されたことがあるのでは。そしていまでもそれに深く傷ついているんでは。
外見以外でも、たとえば育ちのよさとか、家柄とか経済状況とか、個人の能力とか、悪口はいろんなバリエーションがありますけれど、
「ばかって言ったほうがばか!」とは言い得て妙で、
悔しくてとっさに「ばか!」と言ってしまうひとは、「自分はばかって言われて傷ついたことがあるから、他のひともばかって言ったら傷つくはずだ!」と思って、「ばか」を選ぶんじゃないかと思うのです。
職業柄いままでもよく野次を受てきました(笑)しかし、
「ぶす!」
とか言われてもわたしはそんなにダメージがありません。
間違っても自分の外見が優れているとは思ったことないですが…不思議と容姿についてあれやこれやと言われても聞き流せてしまうのです。あなたの好みじゃなくて悪かった、くらいの感想です。
そして思い返してみると、うちの母親は子どもの外見を悪し様に言ったことがないんですよね。たくさん喧嘩してきましたが、冗談でも不細工だとかは言わなかった。
当たり前だと思っていたのですが、そうでもないようで。
おかげさまで、わたしはひとに腹が立ったとき、「ぶすのくせに!」という発想にはいたらない人間に育ったようです。これは両親のおかげなんだろうな。容姿という項目は自分の価値判断の中でけっこう低いところにあるみたいです。
そんなわたしが言われて傷つくのは「そんなこともわからないの?」ということばです(´ω`)ひとに嫉妬するときも、ひとを見下すときも、そういうところが基準になってる気がします。学力コンプがこんなとこに出るなんて。
そして、心底不愉快に思ったときにとっさに出る行動が『無視』なので、ひとに相手にされない自分、というのもコンプレックスなのでは、と自分では解釈しています。
価値観というのは環境が育てるものなのでしょう。
子どもに野次られると、「この子は家でこんなこと言われてるのかなあ」と思って、そっちに気持ちを持ってかれて泣きそうになることもしばしば。
自分が子どもを育てるとき、冗談でもプライドを傷つけるようなことは言わないように気をつけようと思うのでした。
このままだと将来平気で自分の子どもに「お前おもんない」とか言いそうで…。それはあかん。