「人生」を”ライフ”ということはあった。
「生活」を”ライフ”ということもあった。
詩人・萩原朔太郎が、
「生涯」という言葉に”ライフ”とルビをふっていたことを知り、
日曜日のトイレの中で、
あまりに鮮烈なリアリズムに打ちのめされ、悶絶してしまいました。
リビングに戻ってきてからも、
いまだ脳みそがジクジクと騒いでいるので、
ここに記しておこうと思った次第です。
「生涯」という言葉を口にするとき、
人は、他の誰をも想定せず、ただ自分自身の「生涯」に思いを馳せます。
「人生」は、その生涯が終わろうとも、誰かの想いの中で続いているような。
ひるがえれば、生まれる前から、母親の中で存在しているような。
「生活」は、過去から未来への縦軸と、
共に生きる人々との横軸の中で、
絡み合いながら形成されて、
その絡んだ糸は、時に知らない町にまで広くたなびき、
もしくは、時に誰にも見えないように収縮する。
ならばいわば「生涯」とは、
およそ個人的な、自分の始まりと終わりを自ら規定し、
譲れない自我で塗りかためる、
もっとも人間らしい愛らしさと醜さを内包しているものです。
これこそがまた、”ライフ”。
お久しぶりです。
8月より、ブログ等リニューアルいたします。
このブログもまた、
泉たくとの「生涯」=ライフの一端です。
今しばらくお付き合いいただければ。。。
たくとでした~
「生活」を”ライフ”ということもあった。
詩人・萩原朔太郎が、
「生涯」という言葉に”ライフ”とルビをふっていたことを知り、
日曜日のトイレの中で、
あまりに鮮烈なリアリズムに打ちのめされ、悶絶してしまいました。
リビングに戻ってきてからも、
いまだ脳みそがジクジクと騒いでいるので、
ここに記しておこうと思った次第です。
「生涯」という言葉を口にするとき、
人は、他の誰をも想定せず、ただ自分自身の「生涯」に思いを馳せます。
「人生」は、その生涯が終わろうとも、誰かの想いの中で続いているような。
ひるがえれば、生まれる前から、母親の中で存在しているような。
「生活」は、過去から未来への縦軸と、
共に生きる人々との横軸の中で、
絡み合いながら形成されて、
その絡んだ糸は、時に知らない町にまで広くたなびき、
もしくは、時に誰にも見えないように収縮する。
ならばいわば「生涯」とは、
およそ個人的な、自分の始まりと終わりを自ら規定し、
譲れない自我で塗りかためる、
もっとも人間らしい愛らしさと醜さを内包しているものです。
これこそがまた、”ライフ”。
お久しぶりです。
8月より、ブログ等リニューアルいたします。
このブログもまた、
泉たくとの「生涯」=ライフの一端です。
今しばらくお付き合いいただければ。。。
たくとでした~
