4月、6年2組の新任教師の星はこどもたちに「先生はこのブタを育てて、最後にはみんなで食べようと思います」と提案。6年2組は騒然となる。ブタにPちゃんと名づけ、校庭に小屋をつくり、交代しながらえさやりから掃除、糞尿の始末まで生まれて初めての作業に戸惑う子どもたちであったが、やがてPちゃんに家畜としてではなくペットとしての愛着を抱くようになっていた。卒業の時は迫り、星はPちゃんをどうするかみんなで話し合って決めてほしいと提案。クラスの意見は「食べる」「食べない」に二分……。
(wikipediaより)
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私は、
宇宙にビックバンが起こり地球という惑星が存在するようになってから、
この惑星の最大の奇跡は、人間という生物を創りだしたことにあり、
この惑星の最大の汚点も、人間という生物を創りだしたことにあると思っています。
何かに信仰を持っておられる方からはお叱りを受けるでしょうが、
「神」なるものも、所詮人間の想像上の創造物にしかなり得ない云わば具現化しないものであり、
現代においてそれは形骸化しているとさえも表現されかねない存在にあると、
無神論者な罰当たりな私などめには感じてしまうのです。
なぜ「神」という存在を引き合いに出したのか言えば、
「神」なる者の形容は「絶対」主義に直結し、
あたかも我々人間という生物が、他の生物に対してその思想を押し付け実行さえもしている、
いや、そのような大それた表現ではなく、
言い換えるならば、
本来であれば「絶対」的な存在でないはずの人間という存在自身の「エゴ」だけで、
この地球という惑星の規律が出来上がっていることに苛立ちを覚えるからなのです。
我々人間は人間という生物の一種類に過ぎないのであって、「神」ではないのは言わずもがなな論説になります。
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スーパーに行けば、食肉処理を施された「その後」の「商品」が動物の種類を問わず陳列されています。
しかしそこに行くまでの工程は、消費者である我々の多くにはあずかり知れぬものになっています。
知ろうとしないその無関心さは、
なにも食肉処理されたその「商品」のその工程だけに留まらないのが、
今の日本人の救いがたい愚かさの愚の骨頂ではありますが、
知ろうとしないその結果の形骸化は、
「神」なるものが形骸化したその結果にも当たらずといえども遠からずなのではないのかと思うのです。
他の生物を食してはいけないのではなく、
他の生物を食しているのだと自覚し、
我々人間という生物が、他の生物から生かされているのだと感じなければいけないそのポイントに、
人間と「神」の存在している境界があるのではないのかと思うのです。
我々人間は、他の生き物から命をもらって生かされているのです。
その生き物の命は、数や量で判断し熟考を重ねているフリをするものでもありません。
偽善がまかり通らないものが、そこにはあるからです。
世の中には、この偽善を振りかざし自己満足に浸っているものが多くいますが、
こういった偽善を振りかざす者ほど、
自身の哲学を語らせるとボロが出てしまうところがこれまた今の日本人の救いのない所以でもあるように思います。
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映画では、クラスの子供達が一年間飼ってきた豚のその後について討論を重ねます。
Wikipediaによれば、その豚がどうなるのかを子供達には台本上で表現を敢えてせず、
一年間飼ってきた豚のその後についての討論はほぼ台本なしで行なったとの事です。
ですが、とても良い討論でした。
食べるにせよ食べないにせよ、
本当にいい討論が繰り広げられているように感じます(予定調和な部分もありますけど)。
ぜひお子さんをお持ちの方はご一緒に見て、互いの感想を述べ合うと良いと思います。
そこには、なにが正解で、なにが間違いなどというものはなく、
その会話自体にきっと、堕落してしまっている我々人間自身の大きなその後の可能性があるに違いないのですから。