●流派の伝承
新陰疋田流(しんかげひきたりゅう)とは、疋田景兼が伝えた槍術を中心とした長柄の武器術を猪多重良が大成させた武術流派です。
疋田景兼を開祖とし、疋田流とも呼ばれます。匹田流と書かれる場合も多く見られます。
新陰流の剣豪として知られる疋田景兼は剣術だけではなく槍術等も伝えていました。これは主に新当流槍だと思われます。現在は香取神道流にその形が受け継がれており、形の名前がある程度類似しているところが面白いところです。
その槍術は疋田の弟子の猪多重良が形を加え、疋田流槍術として大成させました。
疋田流は素槍を用いる槍術流派ですが、薙刀、剣術(ただし太刀対槍)、十文字槍、鍵槍の技も伝えられていました。これら五つの武具を五具足といわれました。
鳥取藩、伊予松山藩、岡山藩、徳島藩、仙台藩など全国各地で伝えられました。
鳥取藩に伝わった雖井蛙流剣術の松田秀彦、武蔵円明流の鈴木卓郎が新陰疋田流槍術の師範でもあったりましたが現在、この系統の新陰疋田流槍術は絶えたと報告されていますが。
鳥取市内と兵庫県の香住、京都の丹波で伝承されています。
薙刀は現在でも鳥取の尚徳会で伝承されています。
また、ビデオ「日本の古武道 尾張貫流槍術」や演武会での解説などによると、尾張貫流春風館では新陰流槍術が伝承されているといことです。
昭和10年に大日本武徳会で尾張貫流の神戸金七師が当時の新陰疋田流の松田秀彦師との交流で伝わったものと書籍や資料に記述があるようですが、春風館によるとその事実は伝わっていないようです。
新陰流には外物として槍術が伝わっているようで、これが新陰疋田流の槍術と新陰流の外物の槍術と同一のものかは不明です。
松田秀彦氏は、鳥取藩士で武術家。流派は疋田流槍術・薙刀術、雖井蛙流剣術。称号は大日本武徳会槍術範士、薙刀術教士、剣道教士です。大久保利通暗殺(紀尾井坂の変)に関与したことでも知られます。
●当家の系譜
伝系譜
・疋田豊五郎栖雲斎藤原景兼
・猪多伊折佐重良
師豊五郎に刀槍二術を学び工夫を加え一流派として大成させた。
池田忠継に三百五十をもって仕える。その後忠雄に仕えて四百石となって、
寛永九年に光仲に従って鳥取に移った。
寛永十年九月二十九日死去
法名 秋圓宗正禅定門
・加藤十左衛門正次
猪多重良の嫡子が他藩に仕官したため、重良の後を継ぎ伝統を受け継ぎ師範となる。
正次は娘を八田正吉に嫁がせ、正吉を養子としてから清泰公(池田忠雄)の許可を得て隠居料二百五十石を孫の清兵衛正次に譲る。
承応三年免状
寛文三年に死去
・八田作右衛門正吉
承応三年免状
加藤十左衛門より唯授一人大事を受ける
この代まで刀槍二術の稽古をしたと記述あり。
貞享四丁卯年五月六日死
法名宗心了空居士
・滝川儀左衛門一貞(疋田流)<滝川派>
河合彌三衛門秀正<河合派>とともに疋田流の双璧となる。
ここで二派に分かれる。
河合が突手の名人と称され、滝川は乗手の名人とされた。
天和二年判形二十七歳
貞享四年三十三歳免状
正徳二庚辰年十月二十五日死 五十八歳
法名 實甠斬祖岩一貞无居士
・松井番右衛門政方
宝暦三庚酉歳正月十六日死
法名 松井院政方無日居士
・松井新左衛門政親(清雲入道)
実父より相続
安永七戌戌年九月十七日死
相外の名人。試合をすると怪我人多数。
細川家の槍の手練れを仕合で相外で気絶させる。
・松井新左衛門政有
実父より相続
天明大丙午年七月十日死
法名 鑓妙院政有日善居士
・大森十左衛門直矩
父直慶より相継される
仙石氏幸に師範を譲るが仙石が師範を止め、再度師範になる。
弘化四年五月に門弟二十五人と記述有。
・加藤伊左衛門正方(如翁入道)
・横河六兵衛友繁(新陰疋田流)
天保十二辛丑六月二十二日死
大森十左衛門直矩の門人
天保十一年免状
加藤正方から冨田流剣術、一貫座流居合などの三流の師範
大森、加藤両名から免状有
法名 義山院
・鈴置伴次郎
武蔵円明流師範もつとめる。
武蔵円明流の記述では鈴置万次郎。
弟に利根之助がおり、家督は後に利根之助が継いだことが藩の史料からわかっています。
横河亡き後四、五年師範を務める
・堀川實然(實念)
教誨師として全国を旅しながら武者修行もする。
本拠地は兵庫県香住の本誓寺。
赤松氏の末裔。
武道は大島流、種田流、新陰流(疋田流・柳生流)、去水流、無外流、
他に手裏剣などを学んだと思われる。
松田秀彦と交流があったと思われる。
葉書などが有り。
・堀川十秋
堀川家の養子。俗名はトシアキ。旧姓は大川。
武道は新陰流(柳生流・疋田流)去水流、新当流を学んだと伝わる。
他に新当流の棒術を得意とした。槍、薙刀、棒など長物をよくつかい達者であった。
家業に関する資料や編集をよく行い、著書に「武言録」がある。
・堀川泉優
十秋の長男。俗名有。
職業は教師であった。寺を継ぐために学校を退職し、その後住職をつとめるがこの頃から体調不良で平成24年他界。
武道は祖父や父から学ぶも、あまり積極的には取り組まなかったが、かなり遣った。
養子に行った弟がおり、二人で主に稽古した模様。
教師、住職として人としての生業を重視した。家業の形の整理などをおこない。次の世代の為の資料などを作成した。
武道は槍、薙刀をよく遣った。「当家の鑓」という作文を遺している。
その他、流儀に関する記憶を元に文章をまとめた。
●形
<定中>
表の槍とも言われ、初めに稽古される形です。続け遣いで行い稽古の錬度により二段階に遣い方が変わります。
定は心、中は槍を表します。伝書によりますと心の働きによって使う槍と書いてあります。
相外
前飛
蛙遊
必勝
三當両段
<強弱>
より定中より使い方が錬度により変わる鑓です。奥伝に至ってからも様々な遣い方がある鑓です。
強をもって弱に勝ち、弱をもって強を制する鑓と先師から伝わっております。
残定
三重
六條
合落
波間
手縛乱勝
<諸学集>
諸学集は「定中」「強弱」「灌頂」これらが身についた後にどの長物でもそれらが使える様に、または「定中」「強弱」「灌頂」と同時に伝えられると先師から聞いております。
猪田重良のころはこの諸学集の太刀合から稽古されたと書物にあります(仙台伝資料から)。
形の名だけ見ると、新当流の影響が多く出ているのがわかります。疋田豊五郎も念流・陰流・新当流を稽古したようで、豊五郎が出した鑓目録には新当流の名前に酷似した形が載っています。
おそらく猪多重良は疋田豊五郎から伝えられた新当流の鑓に「定中」や「強弱」を加えてこの流儀を大成させたのだと思われます。
疋田流(鳥取藩伝)には新陰流ように剣術も伝わっていたようですが、四代目あたりの河合秀正・滝川一貞で槍術・長刀の二つの稽古が主になったようです。
鳥取の武道史によりますと「五具足」と称して槍・長刀・鍵槍・十文字槍・太刀をすべて免許されたものを「真理の免許」、概要を授けられたものを「派手(端手)の免許」と言われていたようです。
河合系は新陰疋田流と称して真理に近い稽古をし、当家の系統の滝川系は疋田流と称して端手にちかい稽古をしたそうです。
他の派もあったようですが、いずれも数代で途絶えてしまっています。
河合・滝川は幕末まで伝えられこの両派からまた七つに派生しています。
(太刀合鑓)
飛龍
古龍
留
暗夜
太刀合十文字
軍
直
截鎌
二度帰
納鎌
五長刀
水月
残帰
陽直
陰直
柄砕
後五長刀
電光
水車
石申
両断
波合
鑓合長刀
一當
両留
上下留
残月
上記の形の他に遣い方や形なども存在しますが先師の代で失伝したものが多くあります。
<灌頂>
灌頂之巻は疋田流の至奥に達した門人にのみ伝えられる秘伝書です。
主に強弱に対応する技となります。曲勝と曲勢は新当流にもその技がみられ、
そこからもってこられたのだと思われます。
曲勝
曲勢
残勝
九重
玉飛
<向上極意>
摩利支天の秘術。継承者のみに伝えられるモノ。灌頂の巻とともに印可の証としてあたえられる秘術です。
武手寿伯
参考資料 「鳥取藩剣道史」「疋田流定中目録」「疋田流灌頂之巻」「疋田流強弱之巻」「疋田流諸学集目録」「疋田流極意之巻」「疋田流槍術覚書」「疋田豊五郎鑓之目録」「武言録」
「当家の鑓について」「藩本武囈傳統録」
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