最近は「ジョニーは戦場へ行った」という映画を観て、「薄情」という糸山秋子さんの本を読み終えました。
映画の方は題名は以前から知っているのに、何故か見ていない映画なのです。
題名はとても頭に残っているのに・・・、もしかして既に見ているかも知れないな、と思いつつ見始めまして、直ぐに今までに見なかった理由が判りました。
余りにも暗く重たいテーマの映画だったから、過去には手に取り解説を読んだ時点で元の棚へ返していたのでした。
しかしそのことを忘れ借りて帰ったからには、映画好きを自称する人間としては、見ないということは道に外れたことになってしまいます。
ご存じの方も多いと思われますが、映画の内容は、第一次世界大戦に招集され、砲弾を受けて両手両足と顔の一部を失った青年の物語です。
恋人の説得を聞かず戦場に行き、病院で実験材料のように扱われている青年ですが、このような人は映画の中だけでは無くて、現実の世界にも居られるのでしょう。
わたしは二十歳前後の頃からレマルクの「西部戦線異状なし」や五味川純平著「戦争と人間」のような戦争小説を多く読んできていますが、映画「ジョニーは戦場へ行った」は、この一作品で、或る意味戦争というものの全てが語り尽くされているようなそんな感覚に成ったのでした。
小説の方は終始淡々とした内容でした。 群馬県に住む、一人のちょっと中途半端な立場の青年の日常が描かれているのですが、これといった事件のようなものも無いまま、性格描写は良く描けていると感じることができました。
性格を描けている、と言いましても、性格とは、誰でも本人でさえ良く解らない所のあるものですが、そう言った付近のことが良く描かれている、と言う意味で描かれているということなのですね。
文中わたしにとって面白い表現がありました。
・ 「意思」なんて、瞬間的な勢いだけで、すぐに多数決で負ける脳の野党みたいなもんだ。 (「 」はわたしが付けました。)
子供の頃家での勉強計画表を作ってた頃を思い出しました。
・ こんなとこ走っている高崎ナンバーはおれだけなんだ。 宇田川はそう思ってうれしくなった。
むかし田舎から仕入れに出かけ、国道16号線から迷い込んで或る団地に入ったら、わたしのトラックのナンバーを見て叫びながら走って付いて来た子がいました。 後で、もしかして親か誰かが同じ田舎出身かなと思ったものでした。
・ 地方で生きていることは罪でもなんでもない。誰にも後ろ指を指されてはいない。それなのに勝手に罪悪感を持つのはやめちまえばいいんじゃないか。
これは小説内の群馬とか埼玉とか、東京近辺の田舎に住む若者の心理なのでしょうね。 わたしのような近辺に都会のない所に住んでいる者にはそのように想像されます。
・ 目が覚めた時宇田川は一瞬自分がどこにいるのか、わからなかった。 車中泊したため・・・。
昔大阪で働いていた頃、夜遅くなって車中泊しましたが、目が覚めたらどこか一瞬判らず、見回すと神戸の須磨の駅横でした。
近所に八百屋さんが有って、店のおばさんとお客さんたちが変な目でこちらをじっと見ていました。 わたしは何食わぬ顔で静かに走り去りました。
この小説は、谷崎賞受賞となっています。 読み終えてなんとなく芥川賞的な感じがしましたが、この作家は芥川賞はまた違う作品で受賞しているのでした。
毎日少しづつでも春蘭の植え替えをしています。 余り一度にしますと肩凝りが出現するからなのですが、根気が続かないと言うことも有るようです。
「神門」(みかど)と言う、何とも厳粛な名前が付いた春蘭ですが表面の土が汚れています。
鉢から抜くと奇麗な根です。 普段の培養の良さが伺えます・・・ ジイが自賛です^^
植え替えますと土が奇麗でサッパリとします。 3年ほど前に亡くなった先輩から、4年ほど前に仕入れたものです。
そんな懐かしい蘭が蘭小屋には幾つもあります。
次はストックの花です。市場で会う面白い人が、ストックは漢字で書くと「在庫」となります、などと言っていました。
今度会ったら、カーク・ダグラスの「何とかの要塞」という映画を貸してくれると言っていましたが、今度は何時市場に行くか、まだまだ解りません。



