「司馬遼太郎からの手紙」上 を読み終えました。 一度県立図書館へ上・下を返して、再度読みかけの 上 だけ借りて、途中の部分から読み継ぎましたが、やはりその甲斐はありました。

 

内容は、その後も「街道をゆく」での出会いからの書簡がほとんどでしたが、今度は外国への旅行も多く含まれていましたから、外国での司馬さんの足跡の一端も辿れました。

 

幾つかのエピソードを挙げますと、司馬さんの敬愛するドナルド・キーン氏との夜の大阪探索に面白い所がありました。

 

二人で適塾での対談の後、キーンさんが「このあたりは芭蕉の終焉の土地ですね」と言われて、司馬さんがようやく芭蕉の亡くなった「花屋」の碑を探し当て、キーンさんは碑面に顔を寄せたそうです。

 

その時司馬さんは何本かのマッチを擦って、明かりを提供したそうですが「氏の芭蕉研究に私が役立ったことと言えば、この何本かのマッチの火だけだった」と「日本人と日本文化」の中に書かれたようです。

 

文には常にこのようなユーモアが含まれています。 わたしは失礼ながら兼ねがね「司馬遼太郎さんは、面白がらせ屋だ」と思って来ましたが、それを体現されているような場面もあります。

 

御堂筋で二人が「花屋」跡をみたあと、帰りのタクシーを止めようと二人で待つけど、皆南向きでなかなか北方面行きのタクシーが通らないそうです。

 

その内キーンさんが優しく言ったそうです。 「ここは司馬さん、一方通行ではないでしょうか・・・」

 

その後のキーンさんの文に「・・・対談ではわたしは司馬さんから教えられることばかり、しかし御堂筋のことは私の方が詳しかったようです・・・」

 

わたしが大阪で働いている頃、御堂筋は上下通行から一方通行に成ったのでした。 検索してみましたら

<昭和45年1月、都心部を南北に走る主要道路のうち御堂筋と松屋町筋が南行きに、四つ橋筋と堺筋が北行きの一方通行に・・・>

とありますから万博開催の年です。

 

わたしは昭和42年12月に大阪で普通車の運転免許を取りまして、もう55年程運転している訳ですが、運転免許証を貰ってあくる日に初めて運転したのが、大阪駅の前を通って、御堂筋を南下して大阪城の近くのNHKの方にまで行く道筋でした。

 

係長の当時460CCの軽四輪に二人で乗り、係長は御堂筋を通る間中、「真っ直ぐ真っ直ぐ」と言ってわたしの持つハンドルを横から片手で握っていました。

 

わたしの慣れない運転に、どうしても横から割り込み運転が来ますので、わたしがそれらに反応してハンドルを切ると危ないからなのです。

 

まぁ今考えれば、係長も度胸が良かったものです。 初めての運転の者の助手席に座って、ハンドルを横から操作しようとするのですから、しかも大阪の最も交通の激しい道路でです。

 

もっともわたしも、高校三年間無免許で家の軽四輪を運転して店の品物を配達していましたから、全くの初心者よりは運転に多少慣れてはいたのですが。

 

それから数年後に、キーンさんと司馬さんの遣り取りがあったのですね。

 

わたしも御堂筋が初めて南行の一方通行に成った当時の運転を覚えています。 もの凄い数の警官が出て来ていて、交通整理をしていました。

 

特に南側の出口から車が入らないよう、常に誘導していたようでした。

 

しかし、事前に何か月も前からキャンペーンがなされていましたので、大きなトラブルは無かったように記憶しています。

 

わたしは大阪に居る頃は何度も御堂筋を運転しました。 いろんな車や当時持っていた450CCのホンダのオートバイでも通りました。

 

オートバイではシグナル・レースを何時も遣っていたものです。重要な書類は、シャツとズボンの下へ入れてベルトで締めて。

 

ただ目的地近くへ来ると、誰が見ているか判らないので、理想的な安全運転に切り替えていました。

 

わたしの場合は、御堂筋は北から南の出口へ通して走るから別に問題無かったのでしょうね。

 

途中から右折や左折する場合は、車線が多いですから、とても神経を使って大変だったことだろうと思われます。

 

 

気が付くと、司馬さんとキーンさんのお二人の御堂筋から、話が逸れて行ってしまいました。

 

この他に英語のguts ガッツ、が「はら」の意味だとか、フランダースの犬の謎の話だとか、面白い内容が多いのですが、ダメですね~、ついついハンドルがそれて行ってしまいました。

 

多肉植物ですが、良く子供が出来ます。 子宝何とかという通称名らしいですが、良く知りません。

 

 

挿し木した秋菊がもう咲きそうですが、これからが長そうです。