映画「流れる」を見終えました。良い映画でした。
昭和31年の芸術祭参加作品となっています。 わたしが以前書いた先生に受け持たれた頃、小学校五年生の頃の映画です。
映画は一流の女優さんたちがとても良かったのですが、その演技と言いますより、なによりもそれ以前の立ち居振る舞いが何とも言えず良いのですね。
芸者の置屋が舞台ですから、みなさん着物姿なのですが(娘役の高峰秀子だけは、しろうと ということで洋服です)その着こなしが生業をものがたり、きりりとした空気も纏っているのです。
主人公でありその屋の女中(映画の中での呼び名です)である田中絹代は、これはまた違う生業を表しています。
やはり常に着物を着ているのですが、着物の布に張りが無いような、立場からくるこその、緩みの着こなしが感じられるのですね。
女中として気を張り詰めた中にも、着物には手働きからくる動きの緩みが感じられるように、これは着物の生地ばかりでは無い演出のようです。
芸者の制服である着物と、女中さんの普段着とも作業着とも言える着物の違い。
それが意識して見ていた訳でも無いのに、わたしの頭に今でも残っているのです。
それはやはり優れた演出と演技のなせるところなのでしょうね。
物語は薄幸の女中と、その勤め先の、傾いた置屋の行く末が想像される内容になっていますが、わたしにとっては、女優さんたちのそれぞれの立ち居振る舞いからくる気品のようなものが、物語以上に心に染み入ってくるのでした。
着物と言いますと。
わたしの子供の頃の母親たちは、着物を着ていることが多くありました。
普段もそうでしたが、学校の参観日や入学式卒業式もほとんどのお母さんは着物姿でした。
映画の中でも有りましたが、わたしの子供の頃も呉服屋さんが家に時々来ていたものでした。
何時も同じおばあさんが、母や親類のおばさんたちが見守る中、いろんな柄の反物をコロコロと転がして畳の上に広げます。
それらが何枚か交差して、下の畳が見えなくなるほどの賑やかさなのですが、その間子供たちは、何事か母親たちに話しかけてもいけないような雰囲気があるのです。
やがておばあさんの手にそれらがクルクルと収まって布の太巻きのように成るころ、ようやく母たちが子供の声に答えてくれるようになるのでした。
そしてまた、道端で母たちが井戸端会議をしていて、その割烹着の裾をつかんでは「なぁーなぁーお母ちゃん、なぁ・・」などと言っていると、甲高いひょうきんな声が頭の上から聞こえてきて「あら、〇〇ちゃん、うちは〇〇ちゃんのお母ちゃんと違うで、あはは」と笑われた時の恥ずかしさ・・・。
「あっ」と、恥ずかしさ隠しに返ってむくれたりして、母の着物を叩いて、また皆に笑われたりするのでした。
着物姿の女性と下駄の音、わたしにとっては懐かしい日々そのものでもあるのでした。
放置している鉢にユリの花が咲いています。
キバナノセッコクの花です。 垂れ下がりながら咲きます。

