つい今しがたまでジョンが足元をうろうろしていたのが、どこかへ消えていた。

 

子供の頃飼っていたジョンが何故居るのか、自分は俯いているらしく、畳の目が視野の全面を覆っていた。

 

畳の目は少しずつ広がっているが、その回りはぼんやりとした雲に覆われていて、確かな形のものは何も見えない。

 

自分自身も雲の上にでも座っているようで、ゆったりと落ち着いた気分なのだが、ジョンが居なくなったことが少し気に成ったりする。

 

遠くから音が聞こえて来た。ざわざわと小さなさざ波のような音でもあり、シュッシュッと軽快な音も混じっているようでもある。

 

自分の周りが気に成り始めた頃、前頭部の雲も周囲の雲も薄い白色に退色し、自分の頭を自分で動かしても良いことに気が付くこととなった。

 

右側を見てみた。 人の列が見えた。 叫んでいる人も居た。

 

左を見てみた。自分の直ぐ横に人が居て、前を向いている。

 

自分も前を向いてみた。 人が三人居て不規則に動いている。

 

左の人の叫び声が聞こえたので、左を向いてみた。

 

左の人の顔がこちらを向いた。 知っている人だった。見ていて安心して良い感覚が生まれる人だった。

 

「大丈夫か」と左の人が言い、自分は何故か頷いていた。

 

胸に汗が一筋流れた。 思わず見ると、胸全体が汗で濡れていた。

 

ふと、開いた胸の周りの柔道着に気が付いた。下を向くと黒帯が目に入り、柔道着のズボンも目に入った。

 

隣の人も柔道着を着ていた。 周りを囲むように並んだ人達も柔道着を着ていた。

 

自分の前で激しく動いている二人は、柔道の試合をしているようだった。

 

思考が急に混乱してきたようだ。 自分は柔道着を着てここに座っている。

 

汗が流れ、試合場の傍に並んで座っている・・・もしかして自分は柔道の試合をしていたのか・・・?

 

先ほどまで激しく動いていた自分が居た感触はある。

 

胸の皮膚の一部が擦れて赤くなり、少し汗が沁みて心地好く痛むようでもある。

 

つい先ほど技を掛けて相手ともつれた感触も体に残っている。

 

自分は得意な袖釣り込み腰を掛けたかもしれない。

 

その時相手と縺れて畳に顔が押し付けられたが・・・、その後、ここに座っている。

 

その間が飛んでいる。

 

もしかして自分は締め落とされたのか・・・。

 

そうだ・・・。 締め技に入られた感触まで思い出されてきた。

 

首回りと喉の付近の皮膚がヒリ付く感覚が急に激しくなった。

 

「えっ~・・恰好悪いな・・じゃぁ締め落とされて負けたのか、もしかしてそれでカツを入れられ蘇生したのか・・・」

 

「なにか無様な態度は取らなかっただろうなぁ・・・」

 

嫌な事の可能性の方が先に先に頭に訪れてくる。

 

過去の試合で、締め落とされて蘇生した後、可笑しな行動をして失笑をかった者のことまで思い出してしまった。

 

自分と試合した相手の姿を探してみた。 次鋒だから右から二人目のはずだ・・。

 

「そうだ、あの体格の良い、自分よりも一回り大きな奴だった、あいつは力が強かったなぁ・・」

 

試合の相手は何事も無かったかのように、今の試合を見つめていた。

 

目を合わせたくないのでまた下の畳を見た。

 

試合が終わるまでいろいろと片々を思い出したり、またそれらが消え去ったりして、落ち込んだ気持ちのまま畳に座っていた。

 

何時もなら大きな声を出して、味方の選手を応援するのだが、どうしてもそんな気持ちには成れなかった。

 

試合が済み、チームは勝って、皆で体育館の片隅に戻った。

 

同じチームの同郷の先輩が、自分の肩を激しく叩いた。

 

「おぅ頑張ったのー、お前の相手が一番強い奴やったんや、よう我慢して落ちるまで『参った』せんかったのぅ、ようやったようやった」

 

先輩はメガネの顔いっぱいの笑顔で、慰めも込めて褒めてくれた。

 

とても嬉しかったのだが、実は『参った』する暇もなく締め落とされたことは話せなかった。

 

社への帰りのマイクロバスの中では、何時もの皆の陽気さに乗せられて、試合後の解放感にようやく浸ることができた。

 

そしてまた、柔道部員として何か小さなハードルのようなものを一つ超えたような、そんな気分が心の中に仄かに生まれた気がした。

 

車内の他の部員の笑い声を聞きながら、バスの窓に顔を寄せ、何時もの雑然とした街の喧噪を、揺られながら何故か何時までもながめていたい気分がしていた。

 

 

[あとがき]

わたしは19歳から26歳まで、勤め先で柔道部員として各種の試合に参加しました。

 

大きな試合、地方の小さな試合といろいろな試合がありましたが、実は寝技の締め技で締め落とされたことは一度も無いのです。

今回の創作は、柔道生活の中で数人の方から聞いたことを参考にして書いています。

 

考えてみれば柔道の試合は、関節技と言って、相手の腕の関節を逆に曲げて『参った』を誘う技から、今回のように相手の首を、自分の腕や相手の柔道着を利用して締めて『参った』(声は出せませんから、相手の身体を自分の手でパンパンと叩いたり、畳を叩いたりして知らせます)させる技など、危険な技が盛り込まれています。

 

中学高校から柔道をしていた人たちは、多くの方が一度は練習や試合で締め落とされているようなのですが、わたしは社会人に成って18歳から始めた柔道ですから、その経験が無く、締め技に入られても上手く逃げるか、いち早く『参った』をしていたのでした。

 

それでも、怖いもの見たさのようなことから、締め落とされた選手から何度かその経験を聞いたことが有ったのでした。

 

今回の創作は、そんなことを、ふと何故か昨日の配達中に思い出しまして書いてみました。

 

掌文創作はこれで3作目ですが、何時もながらの駄文で失礼いたしました。