武田軍の軍師・山本勘助の墓参り


 


今は廃線になった長野電鉄屋代線の金井山駅から歩いてアクセス。

今は代行バスが出ています。





 


千曲川の土手を降りた場所に墓がありこの看板が目印




 



墓前には風林火山の旗。



 


山本道鬼居士墓と彫られた墓石


 


説明板には詳しく山本勘助の事が書かれている。


永禄4年(1561)の第4次川中島の戦いで討ち死にした山本勘助


武田の軍師として名を残す。隻眼で足が不自由、顔は黒く醜くかったという。武芸、兵法に優れていたが今川義元は外観に抵抗を感じて士官を受け付けなかった。
のちに武田信玄から破格の待遇で築城の達人と見込まれて招かれた。以後は武田家に仕える。勘助37歳信玄22歳の時である。

戦国時代でも激戦と言われる川中島の戦いで上杉謙信軍に奇襲を仕掛けるべく軍を二手に分けて後方から攻め驚き山を降りた平地で待ち伏せした本体が叩く啄木鳥戦法を展開するも謙信に見破られて武田軍は壊滅的な危機に陥る。
勘助は責任を感じて単騎で謙信軍に切り込み壮絶な死を遂げた。
大河ドラマだと最期が格好良く描かれている。