去年くらいから、良い和菓子をいただくと、抹茶(正確には薄茶)を点てて一緒にいただくことにしています。

 

茶道はもう7年位習っていますが、正直、余り上達しません。

 

 

そもそも、習おうと思ったキッカケがいい加減でした。

 

当時、たまたま受けていた市民講座で上品な年配の女性と隣同士で座り、その方がお茶の先生をしてるというのです。

 

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そういえば私、こういう日本の伝統文化とか避けてた(というか毛嫌いしてた)けど、

一回くらい体験してみるのも良いかな、ここで先生に会ったのも何かの思し召しかも

 

瞬時にこうひらめいて、「わあ、私やってみたいです」と伝えたのが始まりでした。茶道を極めたい!みたいな強い思いから始める人とは最初の姿勢に雲泥の差があります。上達しないのも無理はありません。

 

何度かお稽古に通ってみたものの、何だかしっくりきません。薄茶や濃茶を入れて飲むのに、何故こんなに細かい手順が色々決められているのか、納得できないのです。

 

美味しいお茶を入れる科学的な要素は、茶碗の形状、抹茶の量、湯の温度と量、そしてかき混ぜる茶筅の形とその動きだと思うのですが、茶道では茶碗やその他道具の運び方や動かし方、抹茶を入れる容器のふたの開け方、抹茶の掬い方や茶碗への入れ方、茶碗や道具のしまい方など、お茶の味とは関係なさそうなものまで全部が全部決まっていて、その通りにやらねばなりません。

 

そして、こうした細かい手順は、流派ごとに違うので絶対的なものではありません。何か本質とは関係ない、ただ昔から決められているだけの内輪のルールを覚えさせられてるような気がしていました。(私は合理性のないルールを押し付けられるのが苦手です。)

 

やっぱ合わないわー、茶道...

 

数カ月たって思ったのですが、お茶の先生もお稽古仲間も良い人なので、なかなか本音を言いづらくてそのままズルズル続けていました。

 

私の場合、長続きすることには必ず優しく楽しい人が周りにいます。多分、私はとても人に左右されやすい人で、好きな人に良く思われたいという承認欲求の強い人なのでしょう。でも、それが私の成長の原動力なんだから大いに利用すべきと最近は思ってます。

 

お蔭で茶道の稽古も7年続けることができました。

 

相変わらず、基本のお点前も完璧にできるかどうか怪しいですが、7年の間には茶道の副産物で色々な学びがありました。

 

  • 和服(着物)が一人で着られるようになった
  • 色々な和菓子の種類や味を覚えた
  • 小さな花の多様さと美しさを知った
  • 季節の言葉を知った
  • 正座と膝の関係を知った(正座は膝に負担がかかります!)

 

といった具合です。

 

そして、7年お稽古を続けた私が思う茶道とは、

 

「人が集まって美味しく美しく合理的に最高の状態でお茶を飲む方法をつきつめたもの」

 

です。

 

お茶を飲む方法なんて自分で勝手に考えればよいのだと思いますが、やはり過去の偉人が編み出した方法はとても素敵なので、自分で色々思考するより、偉人のやり方を覚えてコピーした方が楽です。何しろ良いという評価が確定しているので安心です。自分のやり方を通して「それって変」「ダッセー」って批判される心配がないのは、人目を気にする私のような小者には重要です。(ブランド物の服を着ちゃうと何となく安心しちゃう感じと似てますね。ブランド物の服、着ないですけど...。)

 

ですから、私にとって茶道のお稽古は、自分の社会性を高めるために、評価が確定しているお作法を覚えて仲間との交流を楽しむものです。お茶を味わうことは二の次です。

 

しかし、家でひとり抹茶をいただくときは、社会性とか関係ないですから、お茶を味わうことに全集中です。その時自分が置かれた状況で一番合理的に美味しくいただく点だけを考えます。お稽古で練習してるお作法はほぼ守りません。

 

ただ、お稽古を通じて学んだ基本は守ります。

 

それは、きちんと準備をすることです。やっぱり心落ち着く整った環境で飲みたいので、お茶を飲む場を満足できるレベル(私の場合は結構簡単)まできれいに片づけます。お茶を飲む前に口に含むお菓子(やっぱり甘い和菓子が合います)は、すぐに食べられるよう個装を外しきれいな小皿に出して、黒文字の爪楊枝を添えておきます。

 

お茶の爽やかな味をしっかり味わうために、お茶を飲む前に甘いものをいただくのは重要です。暑い日に冷たいビールが美味しいように、甘ったるくなった口に抹茶はとても相性が良いのです。ちゃんとした和菓子がないときは金平糖でも良いですと先生は仰います。

 

お湯を沸かして必要道具を出します。お抹茶は必要分を缶から出して茶こしでふるっておきます。(ふるわないとダマが残ったりします。先生はお稽古の前に必ずお茶をふるってくるそうです。)

 

準備はこれくらいです。ここから先はもう完全に我流です。

 

お茶は棗(抹茶を入れる容器)には入れません。お稽古のときのように棗にお茶を履く(お茶を入れること。茶道は言葉も独特)には、必要以上のお茶を缶から出さねばなりません。お客様の前では、お茶が綺麗に履いてある棗から少しだけお茶を上品にすくって茶碗に入れます。当然、棗にはお茶が残るため、これはまた缶に戻します。

 

しかし、一人で飲むときもこんな風に必要以上のお茶を缶から出したり入れたりするのは、絶対にお茶に良くないはずです。(抹茶はとてもデリケートなものです。)

 

ですから、私はいつも缶から抹茶を必要分だけ茶こしに出してふるっておくことにしてます。

 

棗を使わないので、これに関わる動作(帛紗で棗や茶杓を拭くなど)は全部省きます。お湯もティファールのポットで沸かしたのを使うので、窯や柄杓に関するお作法もスキップです。従って帛紗の出番はありません。

 

それから、基本的に台所で点てるので、茶碗を暖めたお湯は流しに捨てます。だから、建水も使いません。お湯を捨てた後の茶碗はペーパータオルでさっとぬぐって中の水気を切るから、茶巾も使いません。

 

つまり、私が家で抹茶を点てるときに使うのは、茶碗とお湯と茶筅と抹茶と茶こしとふるったお茶をいれておく小鉢とペーパータオルだけです。うーーん、我ながら破天荒!

 

暖めた茶碗にふるっておいた抹茶とお湯を入れて茶筅でシャカシャカ...

 

お茶の香りが茶碗から立ち上り、ふんわり緑の泡で覆われた薄茶の出来上がりです。(私が習ってるのは裏千家なので、泡を全面にたてちゃってOKです。)

 

できたお茶を、事前に整えた場所に持っていき一息入れます。

 

ゆっくりと和菓子をいただきます。

 

子どもの頃は和菓子が苦手でした。洋菓子のようにバターとかクリームとかチョコの味がついた甘みが好きでした。和菓子はただひたすら砂糖の甘さが強くて気持ちが悪かったのです。(昔の和菓子はむやみに甘かったように思います。)

 

今は大丈夫です。和菓子も昔より大分甘さ控えめになったような気がします。

 

それでも、口の中にどんどん甘みがたまって少しだけ辛く思うこともあるのですが、この後爽やかなお茶が待ってると思うと、楽しみで仕方ありません。

 

若い頃良く読んでいた中島らもの小説かエッセーに、自分の頭をひたすら叩く人というのが出てきました。何故叩いているのかというと、頭を叩かないときに幸せと感じられるからなんだそうです。なんてひねくれてるんだ!と、思いましたが、薄茶の前の和菓子はこれに少し通じるところがあります。

 

お菓子を食べ終わると、抹茶を手に取り、感謝。ゆっくり茶碗を二度回してお茶を口に含みます。たちまち、お茶の爽やかな香りが、口と喉にたまった甘みを上書きしていきます。至福のひとときです。

 

幸せ過ぎて、ちょっとやめられません。

 

自分のためだけの、お作法等をほぼ全部かなぐり捨てた抹茶ライフ、最高です。