再び述べよう。

「謂れある」区別は、差別ではない。

そして「謂れなき」区別においても、

そこにほとんど何の損害も発生しない場合は、差別ではない。

そして区別された方のほとんどに、何の不満もない場合も、差別とはならない。

つまり、区別された側に、何らかの損害が発生し、

その者たちに不満が発生するとき、それは差別となる。

 

 優遇も、差別の一種とする説がある。

区別による優遇はある。

上で述べた男女別競技も、混合では男性ばかりが勝ち残るであろうから、

女性にも陽を当てたいと考えた、女性優遇と言える。

 その端的な例として、「女性専用列車」という男女区別がある。

女性は一般車両にも乗れるのだから、女性優遇である。

性差を認め、性的犯罪の被害者に多くの女性がなることからとられた処置である。

これは男性差別になると思われるが、そこに不満、批判をする者は少ない。

男性がこの差別で受ける損害よりも、

女性が、この優遇で受けない損害の方が大きいからである。

こういう女性を擁護しての、男女平等のケースは多い。

擁護されての平等、優遇されての平等である。

 

 優遇されると言うことは、何らか劣っていると判断されたということである。

優劣によって、区別されたということである。

区別されたことによって、実質の損害を受けていない、

逆に、優遇されている利得感がある。

また、優遇されない方にとっても、もともと優位にあるから、

そこに優越感はあり、不満や批判も起こりにくい。

ゆえに差別感は生まれないように思える。

 しかし、標準より下に見られたのは確かである。

人によって受ける感じは違う。

ただの違和感、嫌悪感、屈辱感を感じた者や、

諦め、怒り、悲しみなどを感じる者もいる。

しかし、優遇されたことによって、ショックやパニックなど、

精神的に損害を受けたとまで言う者は少ないだろう。

やはり優遇されたのであるから、それを喜ぶ人は多い。

だからこれは、差別とまでは言い難い。

 しかし優遇された、その根拠には劣等がある。

これによって後々に、差別へと続くことも多い。

これも上で述べた、暗黙の了解、ダブルスタンダード(表裏二面)の

温床となる可能性がある。

 擁護や優遇による平等を否定するものではないが、

安易なそれらは、そういう危険性がある。

 

 ダブルスタンダードの例を挙げよう。

ルッキズム(容姿、外見重視)が偏見や差別につながるとして、

世の中では、ミスコンなどが廃止され、牽制される方向にある。

しかし社会での映像の発達により、コーマーシャリズムでは、

ルッキズムがさらに活発化している。

人々は、美しいもの、かっこよいもの、可愛いものを見ると、快楽を得る。

それを集客に利用しているのである。

人の性質を利用して、ある効果を用いることは、

節度があれば、趣向として、すべてを否定すべきものではない。

しかし社会では、ルッキズムへの反発から、

それを重視しながらも、それを利用していない振りをする、

ダブルスタンダードである。

 テレビ局の女子アナなどはタレント化し、

明らかに採用にルッキズムの傾向があるが、

アナウンサーの能力に、その要素は必要ない。

採用の合否に、この要素が含まれるなら、

それは「謂れなき」差別である。

おそらく会社はそれを認めない、

認めないが誰もが承知している、ダブルスタンダードである。

一方的に情報を伝えるテレビ局は、公明正大をモットーとすべきであるが、

それがこの立場をとれるのが、現代社会の「ご都合主義」である。


 

 人々は、平等ではない。

遺伝子の違い、環境の違いから、

その体質・性格・能力に差が生まれる。

しかし平等には扱われたい。

だから人は皆平等であるという概念を信じたい。

優劣を問わず、誰もが標準として対応されたい。

ゆえに人々は、標準を決めておきたく、

標準から外れることを恐れる。

 

 標準から外れれば、異常である。

劣っている、または特異であれば、異常とされる。

それらは程度の差があれ、疎まれ、嫌がられ、恐れられ、区別される。

通常に対応してもらえず、損害を受ける。

誤った判断から異常とされ区別されたなら、それは差別となる。

 

 標準から明らかに大きく外れた者の多くは、

「謂れある」区別を受けている。

例えば、犯罪者が収監されて自由を奪われるや、

重度の感染者が隔離されて自由を奪われるなど、

多くは法律でその処置が規定されている。

 

 しかし標準が曖昧、または厳密すぎて、

それより外れたと判断された者の場合、

それは「謂れなき」区別を受ける。

これが差別に繋がる。

 感覚、常識、または生半可な知識で、曖昧に決められる標準、

または学問上で、細分化し厳密すぎるほどに決められる標準、

これらが権威を持つと、元来、許容範囲にあるものが、

異常と判断されてしまう。

 この歯車が回り始めると、差別された者は容易にそこから抜け出せない。

標準から外れた者を除外しようとする大衆の力が働くと、

一度貼られたレッテルを払拭するために、徒労の戦いを繰り返すか、

やがて諦めるしかなくなる。

 

 差別意識は、自分が標準だという確信を得たい思い、

標準を外れる者を除外したい思い、それらから生まれる。

標準とは何か?

人々は標準という脅迫観念に襲われている。

それは自分の存在価値が脅かされるのを恐れて、

過剰に反応してしまっている。

差別される恐さがわかっているから、差別するのである。

その反応を止める、「嫌われる勇気」「嫌わない勇気」を持たなければならない。

 

以上が私の考察です。