「神は死んだ」
ニーチェのこの言葉、昔はかっこよく聞こえた。社会の固定観念を打ち崩す台詞に思えたから。しかし、今は違う。この言葉いかに致命的で絶望的であるかは本人の予想をはるかに超えていたに違いない。ニーチェのだしてきた「超人」など生まれることもなかった(それ故死ぬこともなかったが)。そしてもう一つショッキングな事態が最近起こった。大きな物語が死んだのだ。
相対主義の立場にいながら、政治的行為(ここでは政治意識をもつこともこれに含めることとする)を行うのは非常に難しく思われる。相対主義・普遍主義という軸、政治参加・不参加という軸、この2つの軸を想定してみる。この区分に従えば4通りの在り方が考えられる。①相対主義的な立場に立ち政治参加をする②普遍主義的な立場に立ち政治参加をする③相対主義的な立場に立ち政治参加をしない④普遍主義的な立場に立ち政治参加をしない、以上4通りである。
②はわかりやすい。自らが信じる確固たる価値があるため立場をはっきり持てる。③もわかりやすい。自分の足元に地面があるかを常に心配している人だ。こんな状態では他人の足元を見て雄弁に語っているわけにわいかない。いつ落っこちるかわかったもんじゃない。いつも自分の足元を見つめ時々心配になって掘ってみたりする。心配しすぎて死んでしまうこともある。
上ばかり見ていた近代人にとって地面がない(かもしれない)ことは衝撃だっただろう。ただ下ばっかり気にする現代人もけして褒められたものではない。上見てもだめ、下見てもだめ、途方に暮れて(広義の)宗教に帰ってくるのかもしれない。宗教は「恐れ」であるという指摘は実に的を射ている。
民主主義は政治参加を、時代は相対主義を要求してくるものだから我々は①を志向しなくてはならないらしい。これがなかなか難題である。近代人であればどれほど良かったことか。