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参観を終え、帰路につく。道路際の商店の前に腰掛け、気長にバスやタクシーが来る偶然を待つ。店先の少女が話しかけてくる。私達三人の会話を聞いて、どこの人だと不思議に思ったからである。
「日本人ですよ。」
彼女の表情が固まる。なんといっていいのかわからないようである。
どうやら、中国の教育の成果がでている模様。
「本物は怖くないでしょ?」
そういうと、にこりと笑い、うなずいてくれた。その場に、運良く息子さんと同じぐらいの子供がいたので、話はそちらのほうへと進む。こんなとき純粋無垢な子供たちは助けの綱である。
少女は、
別れ際には大きく手を振ってくれた。よい出会いであった。
傳村につくと、「金華行き」と書いたバスが止まっている。
なんだ、直接ここまでこれたんじゃないか、
とここまでの遠回りを思い返す。
誰を恨むわけにも行かないのが、旅である。
旅気分でいい気分である。
いい気分でも眠気には勝てない。うとうとしていると、なにやら熱い視線を感じる。地元の子供がじっと私を見ている。何が面白いのか、視線は私に釘付けである。仕方が無いので、眠気を押しのけ、子供にサービス。ほっぺをひっぱり、口を尖らせ、鼻をふくらませる。大喜びの子供さん。金華のバスターミナルに着くまで、ずっとこの調子である。無垢は時には悪魔にもなる。悪魔にとりつかれた私は、眠ることもなく、旅の最大の目的を終えようとしていた。
市内に戻りホテルへ向かう。荷物をとるためである。ホテルの皆さんに別れを告げ、帰路へ着く。
道すがら、お土産にと金華や隣町武義で採れる緑茶「武陽春雨」と「酥餅」を買い求める。武陽春雨は1994年に開発された比較的新しいお茶である。この辺りの茶園は条件が良いのか、有機茶の栽培も盛んである。ついでに、有機緑茶を売りにしている会社のお茶も買ってみた。飛びぬけた特長があるわけではないが、苦味がない飲みやすいお茶である。
酥餅は黙香の酥餅。金華で一番有名な会社である。有名なだけあって、それなりにおいしい。 手作り焼き立てをその場で食べられる。もちろん、一つ一つ包装されたものをお土産として持ち帰ることもできる。この酥餅、一週間二週間おいておいても、そのさくさく感が衰えない。際物である。
さてさて、帰りのバスは、我が家の無垢の悪魔もぐっすり。悪魔を抱きかかえている旦那様もぐっすり。私だって負けじとぐっすり。ほんの少し艾青を追えた、忙しい、そして遠回りの旅は旦那様と息子さんの忍耐と寛容で無事終えられたようである。
やっぱり、縁がなかったのだと、とぼとぼと歩いていると、先ほどのおじさんが、
今、昼ごはんを食べにいっているんだ、もうちょっとしたら帰ってくるから、待ってろ、というではないか。
おじさんの言うとおり、しばらくすると、幹部たちが戻ってきた。
「突然すみません。艾青故居を見学させていただきたいんですが…、日本人なんです。お願いします。」
というと、「もちろん。」といって、案内してくれるではないか。
おおおおお、なんという幸運。旦那様に「よかったねえ。」というと、なんとも言えぬ苦笑いが帰ってきた。私の厚かましさにあきれたのだろう。
村の幹部とおぼしき彼女は、私に故居の鍵を渡し、「好きなだけ見て頂戴。見終わったら、鍵を掛けておいてね。」という。
なんという寛容さ、なんという仕事振り。私が悪い人だったらどうするんだ、見張っとけよと心に思うが、口には出さない。今の私には彼女の寛容さが、その仕事振りをしのぐ偉大なものに感じられる。
1910年3月27日、艾青はこの家の西側の部屋で産声を上げたのだそうだ。
恐らく、ベッドが置いてある部屋が彼の産まれた部屋であろう。説明書きがほとんどないので、推測である。
逸品やパネルの展示が少ないというのは観光化の遅れを意味しているのだろう。しかし、殺風景な景色に、想像は自由である。
産まれてすぐ、乳母の家、この畈田蒋で一番貧しい女性の家に預けられ五歳までの時を過ごしてきた艾青は、この家に戻ってきたとき、どのような気持ちだったのだろうか。
家の中央部にある吹き抜けからは光がたっぷりと差し込む。この明るい空間を艾青は元気よく駆け回ることができたのだろうか。それとも、部屋に閉じこもってばかりいたのだろうか。
息子さんの同級生に、両親から離れ、先生宅に預けられている子がいる。彼の両親も艾青の両親と同じくお金持ちである。理由はもちろん艾青のそれとは違い、もっと現代的なものであるが、両親と離れて幼少期を育つという点では同じである。彼の心に詩が生まれる日が来なければ良いと思う。そして、やはり『大堰河』のような、育ててくれた先生を思う詩が生まれる日が来ればよいと思う。人の心は複雑である。







