僕は今まで完璧な自己紹介というものを見たことがない。そして、これからも見ることはないだろう。



これまで25年生きてきた。まだまだ50年くらいは生きるつもりでいる。この75年間の人生において、僕には何度となく自己紹介をするチャンスが訪れることと思う。少なくともこれまでの25年間は訪れてきた。


しかし、そのたびに僕は失敗を重ねてきた。時には失笑を買い、時には怪訝な視線を向けられ、時には同情をされさえした。


それらはだいたいにおいて、桜の季節に行われた。僕が無力感に囚われ、自己の実質存在を疑う時、窓の外ではいつだって桜の花びらがその存在証明たる儚さを発揮し、僕を嘲り笑って踊っていた。


僕は、自己紹介が本当に苦手だ。僕自身について、語るべきことなんてなにもないし、そもそも自分についてなにも理解できていないのだ。自己紹介という場において、僕はなにを語ればいいのかわからなくなってしまう。頭のなかには、一筋の光も届かず、耳元で砂嵐が流れているように混乱してしまう。心拍数は上昇し、視界は光の粉が舞うようにチカチカとし、なぜか火薬の匂いがしてくる。足元には落ちた汗が琵琶湖よりも大きな水たまりを作り出し、喉は太陽に灼かれたように乾燥してしまい、うまく声が出てこなくなってしまう。金魚のように口をパクパクさせるのが精一杯なのだ。


それでも、今日はこの日記で、自己紹介をしようと思う。うまくできるのかはわからない。うまくできるかもしれないし、これまでにないくらいひどい結果に終わるかもしれない。それでもやろうと思う。人間はいつだって自分自身に挑戦し続け成長しなければいけないし、僕もこのブログを続けていかないといけない。まずは自己紹介から始めよう。



自己紹介の持つ本来的役割は、その人間の本質性を同じコミュニティに属することになる他人にどれだけ知ってもらうか、ということだと思う。そこにおいて、本質性というものが最も大事な部分であり、自己紹介における核となるものだと僕は考えてきた。自己紹介=僕自身という人間の本質性を発表する場、それが僕の自己紹介に対するテーゼだった。


しかし、いったいどれだけの人が自分自身について、その実質的存在を理解できているのだろう。他人についてそのすべてを理解できないのと同じように、自分自身についてそのすべてを理解することなんてできるのだろうか。少なくとも、僕にはできない。


だから、僕は自分自身の自己紹介が苦手なのと同時に、人の自己紹介を聞くということも苦手だ。そこからなにかを、(なんだって言い。例えばその人がだれかを愛する時どれほどあたたかい眼差しをするのかとか、その人が夜眠る直前のベッドのなかでどんなに不安な想いを募らせているのか。そのようなことだ。)拾うことが少しもできないのだ。


だってそうだろう。自分のこともわからないのに、どうして他人について理解するということができるというのだ。



いつのことだったか忘れたが、僕は自己紹介の時に好きなAV女優について語ったことがある。そんなに昔のことじゃない。少なくとも僕も大人に近づいていた。


自分自身が愛する存在を語ることが、自分自身の本質を語ることに繋がる。僕は当時そう信じていた。まだなにかを信じることができるくらいには若かったのだ。


当時の僕はつぼみが好きだった。もちろん今でも好きだ。あの完璧に整っているとは言えないが一つ一つのパーツに愛くるしさが漂う顔、子供のような幼さと大人の女性の体が持つ柔らかさを備えた体、そしてなによりもすべてを優しく包み込んでくれるような笑顔に僕は夢中になっていた。


その時の僕は、おそらく40名近くいた人たちの前で、いかに僕がつぼみを愛していて、つぼみがどれほど素晴らしい存在か、人間がみなつぼみのようだったら世界から争いはなくなるのに、しかしみんながつぼみのようだったら男性は僕一人になってしまい、人類はみんな僕のDNAを持った人間となってしまうので、それはごめんこうむりたい、ということを喋った。


その時に引用した作品は、早漏克服合宿モノだったと思う(これはつぼみの作品のなかでも、彼女の魅力を最もうまく表現している作品だと思う)。早漏男性をリードし、無邪気に行為に誘うつぼみ。しかし行う行為はとても淫靡でギャップがあった。男性が射精をしそうになるのを「頑張ってください!我慢して、我慢して!!」と一生懸命に応援するあの笑顔。彼女の応援もむなしく射精してしまった男性に対して、「もぉ、仕方ないなぁ」と優しく笑いながら慰めてくれるつぼみの優しさ。そのすべてが素晴らしかった。


当時の僕は、僕も早漏になってつぼみに合宿してもらいたいと願ったものだったが、僕はまだ若すぎたのだろう。早漏にはなれなかった。しかし、歳を取り、僕は早漏になったが、つぼみは僕の前には現れてくれない。人生とはそういうものなのだろう。ショーウィンドウの目の前で指を咥えて憧れていても、お金が手に入りお店に走ったときにはもうその商品は誰かの手に渡ってしまっている。


とにかく、僕は自身のつぼみへの愛と彼女の魅力を全力で語った。そこにいるすべての人に、僕自身の本質を理解してもらうために。僕は必死に喋った。嵐がふきあれる頭の中から必死で言葉を紡ぎ出し、声をからして喋った。


すべてを語り終えて、顔を上げた僕の目の前に広がっていた光景は今でも忘れられない。約80の視線が僕に注がれていた。それらに込められた想いは、主に3つだった。大部分の女性は道端の糞にたかるハエを見るかのように軽蔑と恐れを込めた視線を僕に向けていた。品行方正で優等生的な男女は、その視線のなかに怒りを込めていた。そして残りの人たちは哀れみと嘲笑の入り混じったような顔をしていた。


僕はそそくさと自席に戻り、挫折感を抱えたまま、ずっと窓の外を見つめていた。口のなかにはしょっぱい味が広がっていた。汗の味か、涙の味か、どちらかはわからない。窓の外では桜の花びらがずっと舞い踊っていた。



もう一つ昔話をしよう。それは、僕がもっと若かった頃の話だ。

男の存在意義は股間に宿る。股間にぶら下がる分身が、象徴としての自分を表し、実質としての存在証明を果たす。そう考えていた。


僕の存在証明、僕の象徴的自己存在は股間にある。自己紹介とは、自分自身を他人に理解するための場であるならば、この象徴としての自分も発表することが一番の近道ではないのか、とそう思った。


前の人の自己紹介が終わり、僕の順番になった。司会の人から名前を呼ばれる。僕は意を決して席を立つ。そして壇上の前まで歩き、みんなの前にたった。僕の頭が落ち着いていた。すべてが収まるべきところに収まり、散らかった様子はなかった。すべてが正しい位置にあった。呼吸のリズムもいつも通りだった。みんなの顔がよく見えた。ひとりひとりの表情まで確認できるほどだ。こんなことは初めてだった。


僕はズボンのベルトに手をかけた。カチャカチャと金属の触れ合う音がする。みんなが怪訝そうな顔をする。ベルトが外れ、僕はズボンに手をかけた。そして、一気にずり下ろす。短い女性の悲鳴と、男性の笑い声が教室に響いた。しかし、まだ僕はパンツを履いている。女性たちの恐怖を込めた視線と、男性の笑顔に見つめられたまま、僕はパンツにも手をかけた。そして、それもずり下ろし、僕自身の象徴としての自己存在を表現しようとしたときだった。


だれかに僕は倒された。タックルをされ、その場に倒されたのだ。司会の男性だった。彼は僕に向かって、なにかを怒鳴っていた。しかし、僕にはその言葉を理解することができなかった。僕の頭は混乱していた。どうしてこうなったのか。自己紹介をしようとして、その場に押し倒されたことなんて、初めてだったからだ。彼は、呆然とする僕を立たせ、ズボンを履かせ、ベルトを締めてくれた。


僕は、そのあと、彼が僕の席を指さすとおりに、自分の席に戻った。そして、窓の外を見続けていた。その時も桜の花びらは相も変わらず散り続けていた。僕には、桜の花は永遠に散り続けるように思えた。



僕の象徴としての自己存在は、その存在証明を果たせないまま、今でもパンツのなかに横たわり続けている。今では早漏になってしまったが、つぼみを待ち続けている。



これが僕という人間だ。この自己紹介が成功なのか、失敗なのかはまだわからない。一生わからないかもしれない。


ただ、後悔はしていない。これを読んだ読者が少しでも笑ってくれればいい。こんな人間がいるのかと、自分と比べて安心してくれたら、それでいい。それが僕が日記を書く理由だからだ。もしくは、いつかつぼみがこの日記を読んでくれて、僕の象徴としての自己証明を手伝ってくれればいいと思う。