佐賀県の唐津方面を巡ってきました^^
まずは久里双水〔くりそうずい〕古墳へ。
これは3世紀末から4世紀はじめにつくられたものと思われる、
全長90m、後円径62.2m、前方部の幅42.8mの大型の前方後円墳で、
埋葬者は誰なの か分りませんが、石室内から盤龍(ばんりゅう)鏡1面、
管玉2個と、石室上端の天井石との間から刀子1点が発見されたそうです。
このあたりは公園に整備されていて、園内には石室のレプリカや石棺の
復元品などもあります。
古墳を出たら、唐津の海近くにある鏡山へ。
ここには「宣化天皇二年(537年)、新羅に侵略されていた
任那と百済を救援するために唐津にやってきた大伴狭手彦
(おおとものさでひこ)は、滞 在した篠原長者の娘佐用姫(さよひめ)と
夫婦なったものの、やがて狭手彦の乗った船が出港。佐用姫は玄界灘を
見渡す鏡山に登って狭手彦の船に領巾(ひれ)を振り、その後呼子から
加部島まで追いかけて悲しみのあまり石になった」という
「松浦佐用姫伝説」が残ってい て、それにちなんで鏡山も別名
「領巾振山(ひれふりやま)」といわれ、佐用姫も見たであろう
ここからの景色は絶景なのでおススメなのですが、
それにしても 百済から戻った狭手彦は、少しは佐用姫のことを
哀れんでくれたのかしら…。
ちなみにここには佐用姫さんがいるのですが、ここの佐用姫さん
ちょっとコワい
同じ佐用姫さんでも、「道の駅 厳木(きゅうらぎ)」にいたような
女性だったら、狭手彦も忘れずにいてくれたんだろうと
思うんだけどね・・・(;^_^A
さて鏡山のふもとには松浦総鎮守「鏡神社」があります。
ここは万葉集や源氏物語にも登場する古い神社で、一ノ宮には
息長足姫命(神功皇后)、二ノ宮には藤原廣嗣を主祭神として
祀られています。
一ノ宮は応神天皇の御世(西暦270年頃)設立で、神功皇后が
新羅に出兵する際この山に登って戦勝祈願をしたとされて、
凱旋 した時に「わが軍を守ってくれたところ」と
鏡を捧げられたので、ここを鏡神社、鏡村、お山を鏡山というように
なったそうな・・・。
境内には、龍神手水舎・左手は雄龍:力水、右手は雌龍:寶水、
源氏物語の「玉鬘」にちなんだ歌碑
子供を抱く豹のような狛犬や、臨月の母の姿をした御神木の楠
(ホントに膨らんだ胸とお腹に見えましたヨ)などがあります。
ところで二ノ宮なんですけどね、ここには「藤原広嗣の乱」を起こした
藤原廣嗣を天平17年(西暦745年)に祀ったのだそうですが、
歴史上の敗者がナゼこ こに??と思っていたら、神社のHPによると
『吉備真備や僧玄ぼうたちによって廣嗣朝臣を大宰府に左遷されました。
玄ぼうらの悪政は「遠の朝廷」まで聞こ え、彼らを排除する為に
挙兵しました。しかし、玄ぼうらによって謀反人に仕立てられ松浦の浜で
斬首されました。廣嗣朝臣の思いは怨霊となり、都に禍をもた らすように
なりました。その事を知った天皇は玄ぼうや真備を左遷。
そして、勅命により廣嗣朝臣の霊を慰めるために二の宮の建立させ
大明神の称号を賜下され ました。』と、まぁ当時としてはありがちな
怨霊対策だったみたいなんですが、面白いのは神社が伝える乱の経緯が、
よく見る反乱の解説とはちょっとニュアン スが違っているのがね(^m^ )
(まぁ御祭神だから当然なのかもしれませんが)
さて鏡神社を後にしたら、松のトンネルの「虹の松原」を抜け、
「舞鶴城」といわれる唐津城の横を通って、
名護屋城跡に向かいました
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まずは久里双水〔くりそうずい〕古墳へ。
これは3世紀末から4世紀はじめにつくられたものと思われる、
全長90m、後円径62.2m、前方部の幅42.8mの大型の前方後円墳で、
埋葬者は誰なの か分りませんが、石室内から盤龍(ばんりゅう)鏡1面、
管玉2個と、石室上端の天井石との間から刀子1点が発見されたそうです。
このあたりは公園に整備されていて、園内には石室のレプリカや石棺の
復元品などもあります。
古墳を出たら、唐津の海近くにある鏡山へ。
ここには「宣化天皇二年(537年)、新羅に侵略されていた
任那と百済を救援するために唐津にやってきた大伴狭手彦
(おおとものさでひこ)は、滞 在した篠原長者の娘佐用姫(さよひめ)と
夫婦なったものの、やがて狭手彦の乗った船が出港。佐用姫は玄界灘を
見渡す鏡山に登って狭手彦の船に領巾(ひれ)を振り、その後呼子から
加部島まで追いかけて悲しみのあまり石になった」という
「松浦佐用姫伝説」が残ってい て、それにちなんで鏡山も別名
「領巾振山(ひれふりやま)」といわれ、佐用姫も見たであろう
ここからの景色は絶景なのでおススメなのですが、
それにしても 百済から戻った狭手彦は、少しは佐用姫のことを
哀れんでくれたのかしら…。
ちなみにここには佐用姫さんがいるのですが、ここの佐用姫さん
ちょっとコワい
同じ佐用姫さんでも、「道の駅 厳木(きゅうらぎ)」にいたような
女性だったら、狭手彦も忘れずにいてくれたんだろうと
思うんだけどね・・・(;^_^A
さて鏡山のふもとには松浦総鎮守「鏡神社」があります。
ここは万葉集や源氏物語にも登場する古い神社で、一ノ宮には
息長足姫命(神功皇后)、二ノ宮には藤原廣嗣を主祭神として
祀られています。
一ノ宮は応神天皇の御世(西暦270年頃)設立で、神功皇后が
新羅に出兵する際この山に登って戦勝祈願をしたとされて、
凱旋 した時に「わが軍を守ってくれたところ」と
鏡を捧げられたので、ここを鏡神社、鏡村、お山を鏡山というように
なったそうな・・・。
境内には、龍神手水舎・左手は雄龍:力水、右手は雌龍:寶水、
源氏物語の「玉鬘」にちなんだ歌碑
子供を抱く豹のような狛犬や、臨月の母の姿をした御神木の楠
(ホントに膨らんだ胸とお腹に見えましたヨ)などがあります。
ところで二ノ宮なんですけどね、ここには「藤原広嗣の乱」を起こした
藤原廣嗣を天平17年(西暦745年)に祀ったのだそうですが、
歴史上の敗者がナゼこ こに??と思っていたら、神社のHPによると
『吉備真備や僧玄ぼうたちによって廣嗣朝臣を大宰府に左遷されました。
玄ぼうらの悪政は「遠の朝廷」まで聞こ え、彼らを排除する為に
挙兵しました。しかし、玄ぼうらによって謀反人に仕立てられ松浦の浜で
斬首されました。廣嗣朝臣の思いは怨霊となり、都に禍をもた らすように
なりました。その事を知った天皇は玄ぼうや真備を左遷。
そして、勅命により廣嗣朝臣の霊を慰めるために二の宮の建立させ
大明神の称号を賜下され ました。』と、まぁ当時としてはありがちな
怨霊対策だったみたいなんですが、面白いのは神社が伝える乱の経緯が、
よく見る反乱の解説とはちょっとニュアン スが違っているのがね(^m^ )
(まぁ御祭神だから当然なのかもしれませんが)
さて鏡神社を後にしたら、松のトンネルの「虹の松原」を抜け、
「舞鶴城」といわれる唐津城の横を通って、
名護屋城跡に向かいました
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