題名:Kebohongan(『嘘』)
著者:Erwin Pardede
出版社:PT Naga Saco
発行年:2010年 1月



$インドネシアを読む-kebohongan


「宗教は神から下されたものではなく、千年以上も前に思想家たちが作りだしたものであって、宗教が登場した
のは、説教し、布教するための便宜上の必要があったからにすぎない」
(P. 170)

「現実生活を顧みずに天国に望みをたくす教条を後ろ盾とする偽善のせいで、人間は受動的となり、ダイナミックさに欠け、勇気もなく、結果として時代の進歩についていけなくなる」
(P.188)

「たとえ宗教を持っていたとしても、それはただ精神的満足のためだけのものである。宗教がなくても人はよりよい
人間となれるのだから」
(P.254)

「神は支持される必要も擁護される必要もなく、崇拝し賛美される必要もない」
(P.262)

「発展途上国では、宗教を信じる目的は死後の生、つまり天国での生を獲得するためであるので、宗教的儀式
ばかりを重視し、現実の世界での生活水準を向上させるべくじゅうぶんな努力を払わない場合が少なくない」
(P.263)

「宗教を捨ててから、私の人生はよりよく、より明瞭に、より自由に、よりダイナミックになった。人生の真の価値は
ほんとうは信仰や信心によってはかるのではなく、愛と慈悲心の大きさと実行することのできる公正さとによって
はかるものである」
(P.320)

「宗教の信者は、神の望む信仰心の篤さは、宗教的義務をいかにきちんと果たすかにかかっていると思っており、
その結果、悪行も宗教的儀式を行う能力に覆い隠され、それでも自分は信仰に忠実であると思い込むことが
少なくない」
(P.345)

「宗教が国の発展に寄与することはない―――むしろ逆に国を危機にさらすことがある―――というのは、宗教的
権威者は自己を天国への道を決定する神の代理人と自認するのみならず、権力をも手に入れようとするからだ」
(P.393)

以上、いくつか本文より引用してみました。

小説という体裁をとった宗教を巡る問答集、といったらいいでしょうか。

主人公はバタック人(スマトラ北部の人々)の60代男性。キリスト教徒の家庭に生まれ、成人して後ジャカルタへ
出て事業家として成功。キリスト教信者としての立場を捨てて、「145EP」なる人生の指針を提唱。

それに若い秘書の女の子、主人公の旧友で、事業家として成功するも男に大金を持ち逃げされて破産した女性、
キリスト教とイスラームの聖職者、さらに後半の性行為と結婚を巡る問答では、男女関係や結婚について悩みを
持つ人々が幾人か会話に加わります。

「145EP」の「145」は、一神四恵五善といったところ。

唯一神の「1」。

神の創造によりもたらされた四つの恵の「4」。
内訳は、完全なる自然、自然の因果、人類の知性、人間の自立と自由。

五つの善行善意の「5」。
内訳は、愛、平和、公正、寛容、そしてその四善の結果得られる幸福。

唯一神を信じ、四つの恵を尊重し有効に使い、五善を心掛ければ、よりよき人間となって幸福に暮らせる、ということです。

神を信じるといっても、神は人間にいちいち命令を下したり、人間の願いをきいたり、褒美を与えたり罰を下したりするような卑小な存在ではないので、崇拝や賛美のために儀式を行う必要はなく、擁護したり、そのために闘ったりする必要は一切ない、というのが主人公の主張。

宗教を捨てたといっても、既成の特定の宗派から離れたということで、神への信仰は依然として残っているわけ
です。

そこまで神が必要なのか? そういうものをまったく想定しなくてもよりよき人間として幸福になることはできるだろう
し、一応想定するとしても、心のよりどころとして、困ったときの神頼みの対象として、便宜的な概念としてあれば
それでじゅうぶんではないか、という気がしないでもないですが、そのあたりは、やはり宗教を持つことが国是でも
あり常識でもある国で育った人との感覚の違いなのでしょう。

妙な屁理屈もないではありませんが、全体としてこの人の主張は納得できるし、共感できます。

筆者自身、インドネシアに来て以来、宗教を盾にした偽善に疑問を持つようになっていたからです。熱心に祈りを
捧げ、宗教的義務とされることを行っているわりに、平気で嘘をついたり、人をだましたり、人に迷惑をかけたり、
無責任だったり、公衆道徳があまりにも欠如していたり、という現世的モラルの低さが目についてしまうことが少なくないのです。

筆者はキリスト教徒ではありませんが、聖書にある「汝の隣人を愛せよ」という言葉の意味が、なんだかここにきて
腑に落ちてしまったような気がしていたものです。

天国に憧れ、地獄を恐れて、儀式にばかり時間と労力を費やし、戒律を守ることに汲々とする前に、隣の人が困っていないか、いやな思いをしていないかと考えなさい、ということが言いたかったのではないか、と。

そう、神や天国ではなく、経典に書かれていることでもなく、人間に基準を置けば、もっといろいろなことがあっさりと
うまくいくのではないか。要するに「自分がされていやなことは人に対してしない」という、基本中の基本の道徳、
それが摩訶不思議にも見逃されがちになってしまうところが、宗教の功罪のひとつといえるかもしれません。

これはあくまで「小説」なので、問答に加わっている人々も、聖職者を含めて多分にカリカチュアライズされているのは当然でしょうが、「宗教なしで善は可能か」だとか、天国と地獄を巡る真剣な議論だとかを読んでいると、宗教というもののなし得る洗脳の奥深さに思わず茫然としてしまいます。

たとえば、イスラーム聖職者が言います。
「地獄に落ちた人間は決して死なず永劫に責め苦を受け続ける―――とりわけ異教徒は。ムスリムの罪人が地獄に落とされるのは、単に罪咎を洗い流すためだけであり、それがすめば天国に行ける」
(P.250)

まさか、これを文字通り信じている人がいるとは思いたくないですが、いるとすれば、宗教の害悪はもっと喧伝されてしかるべきではないか、という気がしてきます。

宗教を否定するつもりはありませんが、あくまでも心の支えのための便宜的で個人的なものとして信じるという
スタンスがもっと強調されてもいいのではないかと思います。

ところで、「145EP」の「EP」がなんなのか説明が見当たらないのですが、どうやらこの本の著者Erwin Pardedeの頭文字のようです。なんで自分の名前を冠さなければならないのか疑問ですが、この「小説」の主人公は決して聖人ではなく、神から啓示を受けたわけでもなく、過去にずるいこともあれこれしてきた、女好きのおっさんなので、ま、
それくらいの自己顕示があっても不思議はないのでしょう。