昨日の内田春菊さんとDr.斎藤のセッションはボーダーライン(境界性パーソナリティ)の話で始まった。境界性パーソナリティなんて聞くと、ずいぶんな病名に聞こえるが、意外と回りに、このボーダーラインだろう、と思われる人は沢山いたりする。

特徴は、極度のさみしさ(4才児が泣き叫ぶような)を抱え、見捨てられ不安が強く、それ故に、孤独にならないためには手段を選ばない、自傷行為もその一つ。
自己評価の上がり下がりが激しい。心を開くとこの人以外はない、と言うほど親密になるが、裏切り等で溝が出来ると、手のひらを返したようになる。
不機嫌で怒ると止まらない。
赤ちゃん帰りのような幼さがある。
など、娘の回りでも、このボーダーラインと思われる子がいたりする。
原因は依存症のそれと共通するやはり幼少期の母親との関係らしく、簡単に言うと、もらえなかった無償の愛を渇望し、うまく振る舞えない、ということなのだろう。

生きにくい、と思ったら、どうして自分は生きにくいのか、考えてみると、意外な発見があるかもしれない。何でこんなに怒りっぽいのだろう、何でこんなに淋しいのだろう、ボーダーラインに限らず、もしかしたら何かしらの病名がつくかもしれない。

私もかつて、食べては吐き、食べることを拒否、を繰り返していた頃、自分が狂ったと思っていたけど、そこに摂食障害という病名が付いたとき、なぜか安心した。
お金はあるのに盗みが止められず、犯罪者に成り下がった自分に、窃盗癖という病名が付いたときも、なぜか少しだけほっとした。

病名が付くことで、自分だけじゃないんだ、という安堵と、自分という人間が悪いのでなく、病気が悪いのだ、病気だから治せるかも、という光がさすような感じだったのだろう。

だから、病名が付くことは決して悪くない、精神病なんて聞くと、免疫のない人はたじろぐけど、例えば働きすぎるお父さんも、ワーカーホーリックと言う立派な依存症だったり、パチンコ止められない人も、ギャンブル依存症。
こうやって考えると、世のほとんどの人はその重さの差はあっても、何らかの病名が付いても不思議はない。

自分の生きにくさを自覚し、病気だと意識することで、人は成長のスタートラインに立つような気がする。

悪いのは自分じゃない、病気がそうさしているんだ、と考えて回復の道を進む、悩む人、苦しんでる人にそうなってほしいと、凄く思う今日この頃。
小菅での最後の朝、お世話になった国家公務員の先生方に、深々と頭を下げたあの日から一年、今日は私の出所記念日。

嘘のように慌ただしく365日が過ぎ去り、私は相変わらず騒々しい日々を送っている。

いい意味でも、悪い意味でも、自分の図太さを垣間見た一年、何が欲しかったのかやっとわかった今日この頃。
ただただ突っ走って来たけれど、走り過ぎて、大事なものを見逃しているような気もしている。

思いの外、あそこでの日々への後悔の念はなく、どちらかといえば、あの経験のおかげで、見えなかったものが見えてきた気さえしている。

今日を迎えられた事は、当たり前のようで、当たり前ではないかも知れない。
 
あの中で、あんなに望んだことも、会いたかった人も、一年の年月で日常となり、人は日常への関心は、あっという間に見失う。当たり前にあるものに、感謝し続けることの難しさをしみじみと感じている。

無くしてみないとわからないこと、どん底を見ないと人は真剣に変わろうとしないこと、あの中で感じていたことを、たった一年の月日の中で、まるで他人に起こったことのように遠くに感じてる。

せめて今日は、もう一度心をあの日に戻し、当たり前にある今日のこの日に、感謝しなければ。



男と女がSEXして、受精すると赤ちゃんが産まれる。それは生物学的には奇跡かもしれないけど、その奇跡が、悲劇の始まりになる事もある。

子は親を選べないし、家族とは決してサザエさんの様な一面ばかりではない、閉鎖された空間だと、麻布十番のこのクリニックで痛感させられる。「家族機能研究所」というネーミングに、なるほど、と感心してからもう何年が経ったのだろう。

主治医であるこの医師の本に出会ったのは、摂食障害真っ最中のニューヨークだった。アメリカに行けば、専門家が居るらしい、と言うかすかな希望も、当時の英語力の低さから絶望に変わっていた頃、日本にこんな人がいたのか、とそれなりにショックを受けていた。

帰国したら会いに行こう、この人なら私を治してくれる気がする、とほとんど根拠のない確信を持ったものの、そのチャンスは中々巡ってこなかった。
実刑確実、という裁判中にやっとたどり着いたその医師の第一声に号泣したのが、昨日のことのようだ。

抜けられないトンネルの中を歩いていたようなあの頃、麻布十番へ通う事だけで首をつないでいるような日々、それでもそこに行くと、なんとも言えない安心感があり、デイケアプログラムをはじから受けていた。

ここに集まる、いわゆる「精神科の患者」は、それぞれ違う理由で、何かしらの生きづらさを抱え、自分を変えるために今日も明日も麻布へやってくる。
言いっ放し、聞きっぱなしの斎藤ミーティングで、彼女達の話を聞いて、どれほど胸が熱くなったか、どれほど涙を流したか、そしてどれほど支えられてきたのか。

毒親、なんて一言では片付けられないほどの体験をいくつも聞いた。今、目の前で、まるで他人の事を語るように、幼い自分の過去を話すその人の、無垢だった、誰にも助けを求められなかった幼気な姿を想像すると、 見たこともないその親を憎んだ。

それでも、麻布に来る人は、前を見ている。閉じていた蓋を開け、自分と向かい合っている。
絶望の横にはいつも希望があるという事、それは自分で見つけるものだと、教えてくれたのは麻布に集うちょっと変なこの人達、私の愛しい、仲間達。

I love you all
cv
母親の反社会的行動、この記事は6年前の控訴審の裁判中、主治医が書いたもので、この母親とは私の事であり、自分の事を書かれたこの記事の意味が、当時はさっぱりわからなかった。

特に最後の「この女性の怒りは7年前の自分の決断に…」のくだりで、そんな事は1ミクロンも考えたこともなく、自分の事が書かれたこの記事を、他人事のように、それでも理解をしたくて何度も何度も読み返した。

結局実刑判決が出て、逃亡し、逃げ切れずに受刑し、今、もう一度この記事を読んでみると、自分自身のこの母親が痛々しいほど納得してしまい、ただただ主治医の見解に脱帽してしまう。

そして「あなたの結婚は、子が欲しかったから」というこの主治医の言葉とリンクして、最近やっと自分という人間が見えてきた。

初めての逮捕、9.11、妊娠、が同時に起こった2001年のニューヨークで、本当は手放したくなかったやっとつかんだビジネスチャンス、華やかだったニューヨークライフ。
そして確かに私は、その後も続く過酷なレースに、疲労感と恐怖を感じていたかもしれない、とあの頃を遠くに思う。
運動会日和ならぬ、矯正展日和、ということで、行ってきました第4回 東京拘置所 矯正展。

消防自動車やパトカーに乗り込む子供達、刑務官の制服を着て、にこやかに写真を撮っているお姉ちゃん達、プリズン弁当やプリズンコッペパンにならぶ長蛇の列。
広い敷地には、牛丼の松屋、マリオンクレープの屋台から、トヨタやマツダの試乗販売まで、「矯正展」というその名とはウラハラな賑わいの小菅1-35-1。

そんな賑わいの真ん中で、そびえ立つ建物を見上げてみた。
あの中にいる時は、外にこんな賑わいがあることすら想像も出来ないほど心は萎え、いつか外に出られる事は頭ではわかっていても、もしかすると、二度とここから出られないんじゃないか、二度と子供に会えないんじゃないか、と絶望からくる妄想にかられていた。
今、私は確かに太陽の下にいて、あの日々は過去の日々となったけど、今も、この瞬間も、この中には一緒に過ごした仲間もいる。そんな事を思うと、このお祭り騒ぎが急に後ろに遠ざかった。

受刑者の展示物を見に行こうとその人混みを歩いていると、懐かしい顔にいくつも会えた。私服の刑務官の先生達は、一瞬目を疑うほど綺麗で、優しい目をしてた。当然私服の私を知らない向こう側も、視線が合うとしばらく凝視した後はっとした表情をする。
これが卒業生と先生だったら「元気ー?どうしてるのー?」的な所だけど、元受刑者と刑務官だからそうもいかない。それでも、決して会話してる感を出さないで、「元気?」とか「来たんだ~」とか、こっちも「お世話になりました」とか「元気です」とか、軽く会釈をして通り過ぎる。

先生達も人間なんだ、と受刑中、理不尽な事が起こる度、自分を励ますように繰り返した思い。この監獄では、どんなに正しい事を言っても、絶対自分は間違っていなくても、刑務官がNOと言えばNO、罵られても、嘘だろ?と笑っちゃうほど無茶なことを言われても、こっちは罪人であっちは国家公務員。そんな風に割り切れるようになったのは、随分涙を流した後で、それまでは相当怒ったし、抗議したし、きっと厄介な受刑者だったと自覚している。

刑務官の先生達、と言ってもピンからキリまで、その役職や人格に及ぶまで、色々だった。大好きだった先生も沢山いたし、心から尊敬する先生にも出会えた。唯一の楽しみの食事が喉を通らない程、ある先生の言葉に傷ついた時、頑張れ、と一言励ましてくれた先生。
正月の朝から罵倒され、腐りかけてた時、見てる人は見てる、惑わされるな、前だけを向け、と叱ってくれた先生。
多くの先生は、私の人生の掛け替えの無い人になっている。

そんな事を思いながら足を進ませ、ふとあった視線に私は固まった。視線の向こうには、制服姿の刑務官が、足早に何かの業務をこなしながら、やはりこちらに視線を向ける。
刑務官の先生達は普段帽子を深くかぶり、マスクをしているが、そんな姿でも相当な美人と伺えるほどのその容姿。帽子もマスクもしていない初めて見る顔に、一瞬迷うが、少しハスキーな低い声を聞いて、とっさに「先生」と声をかけてしまう。

「やだ、やっぱり、似てると思ったけど、わからなかった」と、私を認識すると、懐かしい低い声が耳を通り抜ける。私の最後の日を、拘置所の外まで見送ってくれた大好きだった先生。若いのに役職的にかなり上で、凛とした面持ち、感情的でない平等で正しい人の扱い、美しさも手伝ってか、受刑者にもだんとつで人気のあった先生。
元受刑者と親しげに話す事など、許される訳もないだろうが、私のその後、近況や家族の話などに、本当に嬉しそうに頷いて、頑張りすぎちゃだめよ、とまたこれもいつも諭してくれたそれを伝えてくれた。

罵られ、傷つき、不貞腐れ、何度かブチ切れそうにはなったけど、子供に一日も早く会うためにはブチ切れることはできなかった。「教育だ」という嘘のような大義名分に、ふざけるな、と熱くなった時もあったけど、それは10年前まであった監獄法の名残りであって、この人達が好き好んで受刑者いじめをしてる訳ではない、と自分に言い聞かせて乗り越えた。
そして、罵り、圧力をかけても、人の心が動かない事を知れ、と心の中で呟いた。人の心が動くのは、そこに愛があるから。愛も温もりもない冷たい場所に、反省も感謝も生まれない。

そんな風に冷静になれたのも、今、目の前にいる先生のような人達の、温かい言葉に私達は沢山救われて、どん底から引き上げられた経験をしたから。担当に罵倒され、泣きながら床磨きをする私に、足を止めて、この先生が言ってくれた一言がどれほど私を力付けてくれたことか。

また元気な顔見せてね、の一言に、外国人だったら、ハグをして別れたい所だけど、ここは日本、そして拘置所、これまでの感謝も込めて深々と頭を下げた。

篤志面接委員と言って、受刑者に習い事的な事を教えてくれる外の先生、華道の先生とも偶然お会いする事ができた。話し方クラブ、の落語家の菊千代先生は一席設けていらっしゃり、ここでも懐かしい再会がかなう。

あんなにここから帰りたかったのに、自分の意思で帰れると思うと、それはいつでもよくなって、ずいぶん長居をしてその門を出ようとした時、信頼していたまた別の先生が、警備の男性刑務官に紛れ立っていた。成田から着いた私を、サバサバ手際よく、優しく誘導してくれた、厳しくてあったかかったこの先生にも、やはり何度も助けられた。視線が合い、数秒後、お互い目を丸くした。
「ガンバッテル?」と口パクで聞かれ「ガンバッテマス!」と口パクで答え、また来年来まーす!と心の中で言って、拘置所を自分の意思で後にした。

コッペパンが食べたくて、ちょっと戒めのために行ってみた矯正展で、故郷で恩師にあったような、温かい気持ちになっていた。

監獄法じゃないよな、と改めて思う。痛めつける事で、こんなこところに二度と帰ってくるなよ、ってコンセプトらしいけど、それよりも、励まされ、包まれる事で人は癒され、人の心を取り戻し、反省し、この人達を悲しませたくないから、こんな所には帰ってこない、っていう方が近道なんじゃないかと、小菅の駅のホームからもう一度東京拘置所を遠くに見た。