Twitterを最近よくやっている。

最近、外国の人の書き込みを見ていたら
appropriateっていう単語が出てきて、
意味が分からなかったので辞書で調べてみた。

「適当な」って書いてあるので、
きっといいかげんな意味なんだと思った。
でもその外国の人の書き込みを読んだら、
いいかげんな意味では使っていないようだ。

日本語の「適当な」っていうのは2通りの意味がある。
それも全く正反対の2通りの意味がある。

「この場合は〇〇するのが適当だ。」
「〇〇を適当な位置に配置する。」
「( )の中に入る適当な言葉は以下のうちどれか?」

この場合の「適当」は「適切」という言葉に置き換えてもいい。
つまりその場にふさわしいという意味だ。

「これ適当にやっておいて。」

この場合の「適当」はいいかげんな意味だ。
日本語では(特に若い人の間では)
「テキトー」などと片仮名で書いたりもする。

日本語は難しい。日本人にとっても。
ましてや外国の人にとってはなおさら難しい。

この話にはオチがしっかりと付いている。

俺が最初に調べた辞書というのは携帯に入ってる辞書。
だからけっこう簡易的なもので簡単に書いてある。
だけどちょとした場合では支障ないし語彙も豊富だ。

たった今(この日記を書く直前)に電子辞書で
同じ言葉の意味を調べてみたらしっかりと、
「適切な、ふさわしい」と書いてあったのでした。

おしまい。チャンチャン。

またまた久しぶりになりましたね。


初対面の人に会うとたいてい職業を聞かれますよね。

俺はそれがどうしても好きになれなくてね。


だって職業なんて聞いていったいどうすんの?

っていつも思ってしまうんだけど。


かと言って、俺の方から話を振る時だって、

相手が初対面だったら職業の話から

入ってしまいそうになるかもしれない。

かもしれなくてもやはり避けたい。

しかし代替案もなく途方に暮れる。


職業で人間性が測れるの?って思う。

何となく(根拠もなく)落ち着けそうだからとか、

この人なら安心して話せそうだとか、

特に話すことがなくてもいいとか・・・。


一緒にいるその人の存在が言葉を越えてくれたら、

これほど素晴らしいことってないように思うんだ。


だけど実際の場面では相手に何を話せばいい?

具体的なテーマがあればすごく楽だけど、

それだと今書いたことと矛盾する気がする。


ということは、イバラの道を進もうとしているのか?

曖昧さが苦手な自分が言葉のない世界を求めてる。


本当は一緒にいて言葉がなくとも安心できるのがいい。

でも暗黙の了解ってのも今ひとつ苦手なんだよな。

どこまでもどこまでも矛盾だ。


テーマが職業だったら職業の話でもいいけど、

そうでなかったら職業を聞くのも聞かれるのも嫌だ。

人に言いたくないようなヤバイ仕事をしている訳ではないけど。

聞かれた時点で気持ちがサ~っと引いてしまう。


職業を聞くのって仕事をしているのが前提だよね。

だけどそうでない人も世の中にたくさんいるわけで。

世間を見回せば本当に色んな人がいるよね。


職業なんか気にされない世の中になったらいいな。

こないだ留学生の人に、
「頑張れって英語にしにくいよね。」
って話したら Do the best じゃないかって。

直訳すると「ベストを尽くす」となる。
しかし日本語の「頑張る」とは
ニュアンスがどうも違う気がした。

ベストを尽くすためには目標が必要だ。
やるべきこと、やりたいこと
がないとベストは尽くせないはず。

日本語の「頑張る」は非常に曖昧だ。
方向性がなくとも使えてしまうという
ある意味では厄介でタチの悪い言葉だ。

だから例えば、引きこもりの子の親が
頑張って働け、頑張って学校に行け
ってまくし立てる姿が浮かんでしまう。

親も子供も今すべきことが自覚できないのに、
「頑張る」という言葉だけは機能してしまう。
親も子供を誇りたくて世間体を
気にしているだけだというのにね。

日本語の「頑張る」というのは
目的や方向性に裏打ちされたものではなくて、
単なる根性論だったりする場合が多々あります。

頑張れと言われても何を頑張れば
よいのか分からないので困ってしまいます。

外国の人でそのニュアンスの違いまで
把握している人がいるとすれば、
その人は相当の日本通だと思います。

この「距離感」っていうのを考えると怖い気持ちになります。

自分で自分が怖くなる時がどうしてもあります。


「怖い」と「寂しい」はどこかで必ずつながっている。

「離れたい」と「近づきたい」は一見対極に思うんだけど、

これも反意語として括るには無理がある。


いつもは怖いからバリアを張ります。

このバリアは心の安定を与えてくれます。


それでも安定は永続ということではなくて、

ほんの少しの間でもマンネリが起こる。

そのわずかな隙間を縫うように、

刺激を求める波が押し寄せてくる。


絶えず上がったり落ちたりして、

人はどうにかバランスをとりながら生きている。


たまに人と関わりたい気持ちになると、

近づきすぎてしまう傾向があります。

いらんことまで言ったりやったりします。

その後で強烈な自己嫌悪に陥ります。

その一歩手前で止めとけばよかったと。


そこで強固にバリアを張ることになります。

そうなると誰も寄せ付けず世界に没頭します。


だから中間がない。どこが中間なのかも分からない。

世間一般ではどうやらその中間があるらしい。

そこがどうしても学ぶことができなかった子供時代。


人と会う。何かをする。その場にいる間は楽しいこともある。

周りの人は楽しんだ後に余韻が残るようだ。

楽しかったから元気が出て明日も頑張ろうとなる。


自分の場合は人と離れた瞬間に寂しくなる。

だから、人と会えば会うほど心に負担が増える。

そこでまたバリアを張る。また繰り返し。


きっと自己肯定感がものすごく低いのだろう。

自分の存在を肯定された経験がない。

甘えるべき時に甘えていない。

安心できる時間が全く持てなかった。

味方を感じられなかった。

周りは敵だらけで常に身構えていた。

一瞬でも気を抜けば罵声や暴力。

そんな気も休まらない状態で生きてきた。

今のところ、今までは生き延びている。


きっと今からでも抜けた部分をやり直さなくてはならないだろう。

たとえそれが、大人である自分には恥ずかしいことだとしても。


子供の頃に何を獲得したか、できなかったか、

それは今後の人生に大きく影響する。

そして子供の頃に受けた心の傷は一生モンだ。

大人になった後で受ける心の傷とは訳が違う。

身体の傷だったら治療すれば治る。


「三つ子の魂百まで」

これはきっと本当だと思う。


誰にも子供を傷つける権利はない。

大人に対してだって誰も傷つける権利はない。

自分を傷つけた人間たちを絶対に許さない。


最近、色んなネット媒体に書きたくてしょうがなくなってる。

ネットに書くことに対しての躁状態なのかもしれない。

今までだってこうやって躁鬱を繰り返したけれども。


ものすごく病んでいることは確かだと思う。

救いなのは自分で病んでると自覚できてること。

だから途中でなんとか歯止めをかけることができる。

自覚できてない人はおそらく暴走してしまうんだろう。


人はきっと生まれた意味を本能的に求めるのかも。

だから自分がこの世に存在しているんだと、

どこかで誰かに訴えないといけない時がある。

ただ病んでる時は相手を選びにくくなる。

誰かれ問わずになってしまう。


いつ自分が死ぬのかは決して分からないけど、

自分が存在したんだって証明できるものを

残さないうちは死んでも死に切れない。

残すまでは絶対に死ねないよ。


ある人にとっては子孫かもしれないし、

ある人にとっては芸術作品かもしれない。

とにかく残さなきゃ。


知ってる人なら何人もいる。

だけど誰とも繋がってないと感じる。

色んな所に行くんだけどどこも点ばかりで、

線として繋がってくれないんだ。


知っている人と会った時、表向きには受け入れてくれる。

しかし奥の奥底ではどこでも歓迎されてない気がして・・・。

自分じゃなくて自分の存在が歓迎されてないようで・・・。

これは事実ではなくて自分が感じること。


周りのみんなは線のように感じて見える。

自分は広大な大地でぽつんと佇む小さな点。


みんな楽しそうだ。悔しいよ。

泣くと目が腫れるから「泣き腫らす」なんだけど、
本当は心が晴れるから「泣き晴らす」なんじゃないだろうか?

書く所を複数の場所に分散させているので、
どうしても不定期になってしまいます。
他に某SNSとマイスペとTwitterで書いています。
練習用に英語で書くことも多いですが。

ここには書いていなかったことも、
徐々に書き足していこうかとも思います。
あくまでも「かも」だけど(爆)

サイドバーの戦国武将がウザいという人は、
ぜひとも音量を下げて下さいませ(爆)
カーソルでちょっかいを出すと怒りますので。
しまいには水攻めくらったり火矢で炎上します(爆)


Buenas noches



これは俺の通っていた小学校の標語の看板なんです。

俺が小学生になる前からあったものです。

この画像は最近撮ったものなので今もあります。


このことばが今でも好きになれません。

努力しだいで出来ることと出来ないことを分けるべきです。

そうでないとヘタをすると、根性論が前面に出ます。


そして、時には誰かのコンプレックスを深めます。

この言葉と「頑張れ」は嫌いな言葉です。

これだけ色んな人と一緒にいても、

そこから離れれば寂しさがものすごく強まってしまう。

1人でいても1人じゃないと思えない。


だから常に誰かといたいと思う。

誰かのいるところにいたいと思う。


だけどいつも1人で行動していると思う。


甘えるべき時に甘えてないんだ。

抱かれるべき時に抱かれてないんだ。

泣くべき時に泣いてこなかったんだ。


誰かと抱き合ったことが何度かあった。

だけどそれくらいじゃ埋まらないんだね。

埋めると思う時点でもう違うんだよね。


生き延びるためにずっと感覚を麻痺させようとした。

これは自分のことではないように思うようににした。

そうしないといけない自分がいた。


だけど、これはとても悲しいことだったんだ。

これは自分自身に起きてることだったんだ。


今さらながらやっと自覚できたら本当に悲しくなった。

だけど、抱き合って泣ける人がどこにもいないんだ。


もっと誰かと抱き合うべきだ。

もっともっと泣くべきだ。


傷つけた人間を憎むことをやめられない。

憎むうとは幸せは来ないと分かっていても。


それが無理だとしたら、せめて、

優先順位をほんの少しだけずらせないだろうか?

自分が幸せになることを先頭にずらせないだろうか?


憎しみはどうせ消えないんだろうけど。

僕のまっさらな紙の上に何かが描かれたのは、

それは紛れもなく僕が6歳の時だった。


純粋な真っ白な余白にアレンジしていくのは、

全て自分の人生の中で自分で選びとって、

自分でやるもののはずだった。


6歳の時、小学校に入学したばかりだった。

言い換えれば保育園を出たばかり。


自分に最初に色をつけたのは、

自分よりも3つ上のとある4年生だった。


いきなり自分を便所の中に閉じ込め、

数分、1時間くらいだったかもしれない、

ずっとずっと殴りつづけた。

それが今ある中で1番最初の記憶。


まだ、ものごころがついただけだった。

その「いじめ」というものが何かを知らない。

「いじめ」というものが存在することすら知らない。


そう、一般的に言われているであろう「いじめ」とは違う。

そういうものがあることを知り、どんな風に行われるのか。

そんな情報を得ていたならば少しは防衛できたはずだ。

それまで周りの誰もそんな兆候は見せなかったのに、

いきなり植え付けられたものが「これ」だ。


それだけに心に刻まれたショックは大きく、

おそらくは永遠に影響を及ぼすことだろう。


ではなぜ、そんな早い年齢でそんなことがあったのか?

それを不思議に思う人もおそらくいるはずだろう。


実は僕にも分からない。理不尽という意味で。

だけど原因は1つだけはっきりしている。

僕の持って生まれた髪の色だった。


今から四半世紀前だから相当閉鎖的だったはずだ。

たった「それ」だけのことで差別され迫害を受ける。


今は外国人も日本にたくさん住んでいる。

小学校や保育園で国籍や人種が異なる子同士で

同じクラスにいたり一緒に遊ぶことは珍しくない。

違いを受け入れつつも共存しようとしている。


僕が毎日言われたのは「ガイジン」という言葉。

訳せばどれもForeignerだけどこの日本では違う。

これは排他的で閉鎖的な言葉だと思うし使いたくない。


大人になって、僕に会う人はいつも尋ねる。

「その髪の色は染めてるの?」

明らかに染めてる人には聞かないが僕には聞く。

「いいえ、生まれつきです。」と答える。

みんなが言う。「ウラヤマシイ」と。


チャパツとして生まれてきた僕は小学生にして、

こいつならいじめても構わないと思える何かを、

それはそういうオーラをすっかり身に纏ってしまった。

毎日、毎日、いつもおどおどしているものだから。


家では両親が毎日口論を繰り返し、

祖父母も含めて家族の雰囲気は最悪だった。

だれにも甘えることも、泣くことも、伝えることもできない。


学校では高校卒業までの期間をただいじめられ続けた。

親に伝えることや安全な所に避難するとか、

そういうことができなかった。いや、知らなかった。


その後は働いたり篭ったりを繰り返した。

そうやって僕の10代20代は終わった。

何も残らなかった。トラウマだけ残った。


そして、その影響は今でも深く刻まれている。

おそらく一生消えないくらい深く。

まっさらな紙の上に描かれるものは何?
そして、その色は何色でどんな形?
その色や形によってその紙の未来が
もし変わってしまうのだとしたら?

その紙にはいくつもの漢字が規則正しく並ぶのか?
数学の方程式の数式が並ぶのか?
子供のイタズラ書きのように絵の具や
クレヨンが所狭しとのたうち回るのか?

そして、もし、そのまっさらな紙のその後の
描き具合でその紙の行く末が決まるとしたら?

そしてそれは自分で描くのか?
はたまた他の人が描くのか?
他人だとしたら誰が描くのか?
そしてそれは公表されるのか?
はたまた密室で描かれ日の目を見ないのか?

そんなループを思い浮かべると怖い時もある。
もしくは希望に満ちる場合だってあるだろう。



その紙とはまさに自分自身。



この記事は次に書く記事への布石。
つまり次の記事につながるということ。


特に楽しみにしててとは言うつもりはないけど。
まあ、そういうことになるわけです。



つづく