この「距離感」っていうのを考えると怖い気持ちになります。
自分で自分が怖くなる時がどうしてもあります。
「怖い」と「寂しい」はどこかで必ずつながっている。
「離れたい」と「近づきたい」は一見対極に思うんだけど、
これも反意語として括るには無理がある。
いつもは怖いからバリアを張ります。
このバリアは心の安定を与えてくれます。
それでも安定は永続ということではなくて、
ほんの少しの間でもマンネリが起こる。
そのわずかな隙間を縫うように、
刺激を求める波が押し寄せてくる。
絶えず上がったり落ちたりして、
人はどうにかバランスをとりながら生きている。
たまに人と関わりたい気持ちになると、
近づきすぎてしまう傾向があります。
いらんことまで言ったりやったりします。
その後で強烈な自己嫌悪に陥ります。
その一歩手前で止めとけばよかったと。
そこで強固にバリアを張ることになります。
そうなると誰も寄せ付けず世界に没頭します。
だから中間がない。どこが中間なのかも分からない。
世間一般ではどうやらその中間があるらしい。
そこがどうしても学ぶことができなかった子供時代。
人と会う。何かをする。その場にいる間は楽しいこともある。
周りの人は楽しんだ後に余韻が残るようだ。
楽しかったから元気が出て明日も頑張ろうとなる。
自分の場合は人と離れた瞬間に寂しくなる。
だから、人と会えば会うほど心に負担が増える。
そこでまたバリアを張る。また繰り返し。
きっと自己肯定感がものすごく低いのだろう。
自分の存在を肯定された経験がない。
甘えるべき時に甘えていない。
安心できる時間が全く持てなかった。
味方を感じられなかった。
周りは敵だらけで常に身構えていた。
一瞬でも気を抜けば罵声や暴力。
そんな気も休まらない状態で生きてきた。
今のところ、今までは生き延びている。
きっと今からでも抜けた部分をやり直さなくてはならないだろう。
たとえそれが、大人である自分には恥ずかしいことだとしても。
子供の頃に何を獲得したか、できなかったか、
それは今後の人生に大きく影響する。
そして子供の頃に受けた心の傷は一生モンだ。
大人になった後で受ける心の傷とは訳が違う。
身体の傷だったら治療すれば治る。
「三つ子の魂百まで」
これはきっと本当だと思う。
誰にも子供を傷つける権利はない。
大人に対してだって誰も傷つける権利はない。
自分を傷つけた人間たちを絶対に許さない。
最近、色んなネット媒体に書きたくてしょうがなくなってる。
ネットに書くことに対しての躁状態なのかもしれない。
今までだってこうやって躁鬱を繰り返したけれども。
ものすごく病んでいることは確かだと思う。
救いなのは自分で病んでると自覚できてること。
だから途中でなんとか歯止めをかけることができる。
自覚できてない人はおそらく暴走してしまうんだろう。
人はきっと生まれた意味を本能的に求めるのかも。
だから自分がこの世に存在しているんだと、
どこかで誰かに訴えないといけない時がある。
ただ病んでる時は相手を選びにくくなる。
誰かれ問わずになってしまう。
いつ自分が死ぬのかは決して分からないけど、
自分が存在したんだって証明できるものを
残さないうちは死んでも死に切れない。
残すまでは絶対に死ねないよ。
ある人にとっては子孫かもしれないし、
ある人にとっては芸術作品かもしれない。
とにかく残さなきゃ。
知ってる人なら何人もいる。
だけど誰とも繋がってないと感じる。
色んな所に行くんだけどどこも点ばかりで、
線として繋がってくれないんだ。
知っている人と会った時、表向きには受け入れてくれる。
しかし奥の奥底ではどこでも歓迎されてない気がして・・・。
自分じゃなくて自分の存在が歓迎されてないようで・・・。
これは事実ではなくて自分が感じること。
周りのみんなは線のように感じて見える。
自分は広大な大地でぽつんと佇む小さな点。
みんな楽しそうだ。悔しいよ。