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みょんじゃさんのブログ

歴史オタク韓国中を旅しています。

朴正熙、5回目の大統領に当選 

 

1967年、朴正熙大統領の2期目の任期が始まりました。 

朴正煕大統領が軍事政府の時に作った憲法によれば、次の大統領選挙がある1971年には朴正煕は大統領選挙に出ることができませんでした。 

朴正煕は最後に大統領の座にいることになりました。 

「閣下が退くことはあり得ないことです。 今、経済がようやく回復し始めたのに......" "何か良い考えでもあるのか?"

 "憲法を改正しなければなりません。”

朴正煕が引き続き大統領を務められるように憲法を改正するというニュースに、多くの国民が怒りを示しました。

 

 "李承晩政権が退陣してから10年も経っていないのに、また個人のために憲法を改正するというのか?" "勝手に憲法を変えるって? 独裁政治に戻ろうというのか?" 

 

さらには、朴正煕大統領が所属していた共和党でも憲法を改正することに反対する人が多かったです。 しかし、朴正煕大統領は退くことはありませんでした。

 

 

 

 

"朴正煕大統領は李承晩のようになりたいと思っている。 三度大統領を務めた後、次に別の理由を挙げて、永遠に大統領を続けると宣言するだろう。」 市民と学生が現行法改正に反対してデモを行いました。 

 

政府は軍人を呼び寄せてデモを阻止し、憲法を改正しました。 

新しい憲法では国民が直接大統領を選ぶことはできません。 

また、大統領が国会議員や最高裁判所長官を任命でき、国会も大統領の思い通りに分散させることができます。

 国民の権利が制限された憲法に多くの人々が反対しました。 

すると情報機関が出てきて、反対する人を捕まえて閉じ込めました。 国会も開くことができず、国会議員やジャーナリストまでが引きずり込まれ、過酷な拷問を受けました。 

 

1972年12月、朴正熙大統領は4度目の大統領に就任しました。 

そして6年後には5人目の大統領になりました。

 彼は1979年に亡くなるまでの18年間、国の最高責任者の座にありました。 

これまで国民は真の自由を享受できていませんでした。

 

 

 

約30年間にわたって『漢江の奇跡』と呼ばれる高度経済成長が実現され、韓国は世界最貧国の層から脱したと評価される

 

一方、1972年の自己クーデター及び憲法改正(十月維新)で大統領任期と重任制限を撤廃することで永久執権を図ろうとし、また民主化運動をスパイ操作や司法殺人などで弾圧したとして「独裁者」との批判的評価も受けていた。

任期中の1974年と1979年の2度に渡って暗殺を図られ(1回目は文世光事件、妻の陸英修が死亡)、2回目の事件で命を落とした(朴正煕暗殺事件)

 

朝鮮戦争終結時には陸軍大佐にまで昇進、1959年には陸軍少将、第2軍副司令官の重職に就いた。一方、内戦を終えた韓国内では李承晩が行った大規模不正選挙が原因で四月革命が勃発し、第二共和国体制が成立するも、議会の混乱によって一向に復興や工業化などが進まず、また軍内の腐敗も深刻化していた。これらの状態に対して1961年5月、軍の将官、将校、士官らの改革派を率いてクーデターを決行し、軍事政権(国家再建最高会議)を成立させた(5・16軍事クーデター)。形式的な民政移行が行われた後も実権を握り続け、自身の政党である民主共和党による事実上の独裁体制を形成し、第5代から第9代大韓民国大統領(在任、1963年 - 1979年)と大統領任期を5期に亘って務め、権威主義体制による開発独裁を推し進めた[6]。

独裁政権下では日本の佐藤栄作内閣総理大臣との間で日韓基本条約を批准して日韓両国の国交を正常化し、更にアメリカ合衆国のリンドン・ジョンソン大統領の要請を受けて1964年にベトナム戦争に韓国軍を派兵した。日米両国の経済支援を得て「漢江の奇跡」と呼ばれる高度経済成長を達成した。大韓民国は1960年代から1970年代にかけての朴正煕執政下の高度経済成長により、1970年頃まで経済的に劣位であった同じ朝鮮民族の分断国家、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)を経済的に追い越し、最貧国グループから脱した。

 

一方で統制的な軍事政権下において、民主化などの運動を徹底して弾圧した。

人権上問題のある拷問や政治犯の投獄なども頻繁に行った。

1972年10月17日、突如抜き打ち的に非常戒厳令を宣布、憲法改正を行い、強権化・長期政権の継続を可能にした(十月維新)。長髪やミニスカート、フォークソングといった海外からの「青年文化」と呼ばれた流行も反政府運動の温床になると懼れ、厳しく取り締まった。対外政策においてはベトナム戦争に介入するなど一貫して親米政策を取ったが、米中国交正常化以後は独自核武装を推進した。しかし、そのため米国との関係が悪化し、カーター大統領の強い牽制を受けて失敗した。また日本との友好姿勢も国内の民族主義(左派ナショナリズム)から敵視される背景となった。政権後半には単独での核武装などの自主国防路線や、日本に滞在していた民主化活動家の金大中をKCIAにより拉致し国家主権を侵害する(金大中拉致事件)など強硬な政策を進めた。