ついに高麗は王建が後三国を完全に統一。
クンイェが最後にいた首都の宮廷があった江原道、鉄原(現在真っ二つに北朝鮮と分断している)から首都を919年に開城ケソン にした。
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ソンアク山付近に残っている パルオチャム城
王建は統一した国を、よく治めた。
その下には大国の朴述煕のような立派な臣下もいた。
王建はまず、長い戦いによって疲れきった民の税金を3年間免除した。
戦場から帰った兵士たちは、税金として収めていた穀物を3年間出さなくていいと喜んだ。
そして、朝廷は官僚制度を改めた。
本来、一番高い官職の大国を頂点に、全体が9等級であったのを、新しく16等級に増やした。
また、官職の高低に関係なく、功績の高い臣下に田畑をより多く与える「役分田」をした。
人々も国王の賢明な政治を有難く思い、今までに増して熱心に働いた。
後三国を統一した王建。
地方の豪族たちが頭痛の種だった。
彼らは私兵を数千名率いていた。
王建ももともと、開京地方の豪族出身だった。
豪族たちは王の言うことを聞かず、や力たい放題だった。
そこで王建は豪族たちの娘を後宮に迎えた。
豪族たちを国王の父にし、忠誠を誓わせた。
いつの間にか王建は年をとり、動くことさえ不自由になりました。
そして王建は、王子の武を太子に立てた。
しかし、王建は自分の死後、25名の王子たちの間で王位争いが起きることを心配していた。
ある日、王建は朴述煕を呼びだして聞きもらさず書き取るよう告げた。
第一、寺をたくさん建て、仏の恩徳を称えるようにせよ。
第二に、国王の座には必ず正妃の長男を就かせるようにし、その子にその器量がない時にはその次の子に継がせるようにせよ。
第三・・・・・・・・・
王建は国を治めるのに必ず守るべき10の重要な教え「訓要十条」を残した。
訓要十条には、嵐容に関することや、下をよく選び、人々を大切にするという内容も入っています。
王建は訓要十条を出し、1か月後、後に世を去った。
1993年開建されるまえの王建王陵の姿














