廟号は恵宗、諡号は義公大王。
字は承建(承乾)。 後百済から泰封に転向した羅州の長和王后呉氏の蘇生で、太祖の嫡長子であり公認された後継者だった。
「武」という徽のようにすごい戦闘力を持った軍人であり将軍だった。
王建は 912年に息子の王武(恵宗)を産んだ。
色々な豪族と「政略結婚」を通じて統合を模索した太祖王建には20人を越える息子がいた。
自分を殺害しようと寝所に鋭い剣を持って乱入した刺客を、剣を使わずに素手だけで殴りつけたエピソードがあるほどだ。
10代、20代の時代には王建に従っていくつかの戦場を歩き回り、後三国統一に多くの武功を立てた。
これは軍人だった朝鮮の正宗と似ている点でもある。
彼は王建の高麗創業と統一大業に専攻を立てた固い武将出身であるにもかかわらず、短かった在位期間と微弱な権力によって現代になって弱い王だったという誤解をよく受けたりもする。
しかし、太祖王建の嫡統を受け継いで帝位に上がった恵宗の地位は格別なものがあった。
遠い傍系の子孫である 예宗と恭愍王が製作した「太廟楽章」(太廟、楽章)で恵宗はどの帝王よりも称賛を受けたりもした。
世間の評価とは別に、彼の性格は戦争の英雄らしく、豪放で寛大で、知的能力も備えていた。
一方では、本人を殺害しようとする暗殺の試みが時と場所を選ばずに起きると、その後、性格が極度に鋭く敏感になり、躁うつ病が疑われる症状も見られたという。
5墓制は「太祖+2小+2目」という複雑な体系に基づいている。
第18代義宗の代に再び不遷之主として恵宗の神主が太廟に仏墓されるので、太祖、恵宗、顕宗を不遷之主とし、文宗、順宗、宣宗、粛宗、礼鐘を祀って「7廟9室制」に改正した。
熙宗の時代にも恵宗と顕宗の神位について議論が繰り広げられた。
王位をうかがっていた王子や貴族たちの陰謀が頭をもたげはじめた。
大覚国師義天が1065年(文宗19)に内殿で景徳国師から戒を受けて剃髪し出家した後、景徳国師に従って霊通寺に移り修学した。 彼の入寂後の1125年(仁祖3)には碑をこの寺に建立した。 高麗王室では他のどの寺院よりもこの寺で多くの参拝をするようになった。
仁宗をはじめとする永宗·新宗·忠烈王·忠宣王·恭愍王などはよくこの寺に行幸して焼香しただけでなく、この寺と縁の深い王たちの真影(眞影)を祀った真影閣を置いたりもした。 したがって、この寺では王室が主管し、斎や機神道場が多く開設された。
特に仁宗はこの寺を大きく慕い、どの王よりも頻繁に行郷したが、1146年正月には華厳会を開くようにし、自ら建てた仏疏を臣下の前で説いた。
文化遺産としては大覚国師碑銘をはじめ、西三層石塔や東三層石塔などがある。 また、『東国輿地勝覧』によると、この寺には高麗文宗の画像と洪子蕃の画像があったとされ、西楼の景色は松島で一番という記録がある。
また、この寺を対象に詠んだイ·ギュボ、キム·グヨン、ビョン·ゲリャン、ソク·ウォルチャン、クォン·グン、イ·ウォン、ソンイム、イ·スンソなどの詩が『東国輿地勝覧』に記録されている。
1901年5月、火災により寺院が全焼した。 以後2002年11月、大韓民国の大韓仏教天台宗教団と北朝鮮の朝鮮経済協力委員会が共に復元事業に着手し、2005年10月に2万坪余りの敷地に29個の殿閣を復元し、今に至っている。
高麗第2代君主の恵宗(惠、912~945)と義和王后の合葬墓
高麗史945年(恵宗2年)旧暦9月15日付の記録には「(恵宗が)9月に重光殿で崩御すると松岳山の東麓に葬り、陵湖を順陵とした」と記録されている。
後に恵宗の王妃だった義和王后が亡くなると順陵に合葬した。
義和王后と合葬されていた
問題は順陵がある「松岳山東麓」がどこかという点だ。 朝鮮成宗の時に発刊された『東国輿地勝覧』には「炭峴門の外の景徳寺の北側」に順陵が位置していると記録されている。
朝鮮宣祖(ソンジョ)時代の記録によると、これまでは恵宗の陵は炭峴門の外にあると把握されていた。
しかし、高麗太祖の陵だけに碑石があって正確に知ることができ、残りの高麗王陵の陵碑は消えた状態だった。
これさえも文禄·慶長の役と丙子胡乱を経験し、多くの高麗王陵は墓の主が分からないほど放置され、恵宗陵も位置を失ったものと見られる。
朝鮮末期になると、高宗は高麗王陵の様々な陵墓(陵寢)を補修·整備し、75基に対して「高麗王陵(高麗王陵)」と書いた標石を立てた。
この時、恵宗の順陵(順陵)は松岳山(ソンアクサン)東南側の裾の安化寺(アンファサ)付近にあることが分かった。
1916年(大正5年)、日本の学者今西龍は恵宗の陵と伝えられる墓を発掘し、次のような内容の報告書を残した。
「封墳(封墳)に屏風石がなく、欄干石の残石が残っており、他の石物はない。 陵の前に丁字閣(丁)の礎石が残っている。」ところが彼はこの調査報告書で「全恵宗巡陵(傳 惠)」と表記し、この墓が巡陵だとは確定しなかった。 当時、日本の学者が推定した巡陵は、日本植民地時代の行政区域上で京畿道開城郡松島面紫霞洞だ。
ここは高麗都城(開城)の内側にある。 高麗の在位王陵がすべて開城城の外にあるということと相反する。 このような疑問を解消するために、北朝鮮は1957年にこの陵を再び発掘調査した。 そして「墓場もない偽りの墓」と発表した。
高麗王陵なら当然石で造られた墓室が発見されなければならないが、何もなかった。 その後、北朝鮮考古学界は開城市龍興洞(ケソンシ·ヨンフンドン、日本植民地時代に開豊郡嶺南面龍興里)の松島貯水池の北側にある「花谷陵」を恵宗の墓と名指しした。 この陵はその時まで墓の主人が誰なのか正確に明らかにされなかったため、ここの昔の地名である「禾谷」という名前を付けて「禾谷陵」と呼ばれてきた。 禾谷陵は松島貯水池の北側の麓の低い山稜線の中腹にある。 一部の学者は「禾谷陵」の西南側にある「東丘陵」が恵宗陵だと主張したりもした。
しかし1997年、北朝鮮の考古学界は「東丘陵」を発掘したが、ただ自分の彫刻と板釘をいくつか発見しただけで、墓の主人を確定する手がかりを見つけることができなかった。 それから20年余りが過ぎた2019年、北朝鮮は内閣民族遺産保護局傘下の朝鮮民族遺産保存史と社会科学院考古学研究所の主導で花谷陵を大々的に発掘調査した。 発掘当時、花谷陵は墳丘だけが残っており、ほとんどの石造物は地中に埋まっている状態だったという。
腹違いの弟である光宗の時、恵宗の一人息子が政治的事件とかかわって処刑されたという記録が示すように、恵宗は当時の混乱した政局の中で平穏に一生を終えることはできなかったようだ。 恵宗の母后である長和王后の墓は陵号が伝えられていないが、時期上、小陵郡第5陵である可能性がある。








