光宗の後を継ぎ王子の佃が、第5代王の景 宗(在位975-981)となりました。
即位して1年間は豪族に政治を任せた。
光宗が追い出した深化を再び呼び寄せ官職を与えた。
臨時監獄も全て取り除いた。
恐怖政治に景宗も怯えていた。
재상になった 왕선 たち豪族の仕返しのための復讐法を作るしかなかった。
国は混乱していた。
政治には光宗の科挙の時の新進官僚勢力に奴婢たちが加わって豪族
政治に疲れ、女たちを遊び囲碁をして暮らした。
왕선 の反逆が起こり、景宗は崔承夢を動かして、豪族中心の왕선 を追い込んだ。
ところが、왕선 が復讐法を口実に王建の息子효성と 완녕が殺される事態に。
景宗は復讐法を禁じ、왕선 を島流し流刑に。왕선 が務めた役職を二人の臣下に任命した。
臣下に権力集中を防ぐために左右執政制を施行した。
976年に田柴科制度を施行し、景宗は官吏たちに、
この制度を実施する以前は、
977年に 田柴科を主管し、 고응 など6人を及第(급제)させ宋ともよく朝貢関係を行っていた。
新羅の最後の王の敬順王 の娘 헌숙王妃 金氏と結婚。
敬順王の爵位を楽浪王に位を高めた。
また헌애 王后の황보 と 헌정王后 화보姉妹と結婚し、헌애 王后との間に 8代王顯宗をもうけた。
景宗3年の978年4月、
979年渤海の流民数万人を受け入れ、現在の平安北道 熙川市
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城を築き国防を強化した。
981年 6月 病に倒れ、いとこの「治」に王位をゆずり、崩御。
和合政治に励んだ王であった。




