「それは駄目だ! 戦いもせずに領土を差し出すわけにはいかない!」
太祖の時から北進政策が消えそうになっていた時期だった。
高麗朝廷は契丹族の投人を巡り、和睦策と対抗策に意見が分かれ、激論がなされた。
契丹は高麗が戦う気勢を見せるや総攻撃の命を下した。
押し寄せてきた契丹軍は、安戎鎮(アンユンジン)で突然、前進を止めた。
険しい山の稜線に築かれた安戎鎮は、高麗の軍隊一ヶ月守っていた。
契丹軍80万人はこの安戎鎮を越えなければ一歩もて契丹軍は蟻の大群のように城壁によじ登り、攻撃を開始し
安戎鎮を守っている高麗軍は、じっと待ちかまえていた。
契丹は高麗軍が怖じけづいて出てこないものとばかり思っていた。
士気がさらに高まった契丹軍は、「いざ」とばかりに城の上に追いこもうとしたその時・・
攻撃を知らせる太鼓の合図!
高麗の軍隊が一斉に喚声をあげながら城の上に現われ「矢を放て!」
「熱湯をぶっかけてやれ!」高麗軍は弓矢を雨のように放ち、沸きたぎる熱湯を瀧のように流した。
天を衝くほどの土気で城壁をよじ登っていた契丹軍は悲鳴をあげ地に転げ落ち
矢に当たって死ぬか、煮えたぎる湯に火傷を負って死んだ契丹の死体がそこかしこに積み上げられた。
怒り心頭に達した粛遜寧は、10日間も、絶え間なく城を攻撃。
しかし、安戎鎮はたじろがず・・・
粛遜寧は軍隊を引いた。
<数万名の軍隊でこの小さな城一つ崩すことができないとは⋯⋯⋯>
しかし、粛遜寧はなすすべがなかった。
- 蕭恒徳 (소손녕) しょう こうとく 軍人 -
彼は部下の将軍めて議論した末、再び高麗の陣営に使臣を送る。
契丹軍をもって降伏させ、安戎鎮で受けた恥辱をそそぐと
丹族は安戎鎮で高麗軍のすぐれた戦術にふり回され進むことができませんでした。
中軍使 徐熙は、小細工を弄する粛遜寧と話しあいに、契丹軍の陣に赴いた。
失敗は許されない危険な状況だった。
「将軍と私はまったく同じく、それぞれ自分の国の国王の命を受けてきました。お互い、礼儀をわきまえましょう」
徐熙の堂々たる態度に、粛遜寧はたじろぐ。
粛遜寧は正論をもって正攻法で話す徐熙を議論では対抗できなかった。
”戦いの勝敗は軍事や武器の数にかかっていない。敵の弱点をよく知っていたら十分に勝てる”
이자백も叫ぶ。
高句麗のときの遼が占めている遼陽地域も渡すように交渉する。
そして、高麗は宋に使えている、遼との間に女真があるのだ。遼と高麗の行き来のためにじゃ女真を倒さなければならない。
これに納得した粛遜寧
それは当然のこと。
戦を好む契丹族が高麗に侵入したのは、言いがかりをつけるほどの理由があったからではなく、かつての高麗の領土をひそかに狙っていたからだった。
徐熙はこのような契丹の欲望を挫いたり、宥めたりしながら諭した。
「将軍は遼の威信を保って軍隊を引きなさい」
徐熙が粛遜寧に最後に厳粛に言い、帰ろうとした時・・・
粛遜寧は徐熙の前に立ちはだかった。
徐熙は契丹が理由なく高麗に侵入したのを問い詰めるために、契丹軍の陣営に行き、粛遜寧と面会した。
粛遜寧はその時、自分の国王からの作戦命令を待っていた。
この事実を知った徐熙は、びっくりした。もしも、攻撃せよという命令が下れば、生きて帰ることはできなかったから。
遼の国王からの回答は7日後にようやく届いた。
「粛遜寧はすぐに、軍隊を率いて戻るようにせよ!」
遼は高麗の敵になることは、宋を撃つのに不利だと考えたのだった。
結局徐熙は、交渉によって契丹の10万の軍隊が退いた。
993年契丹の高麗侵攻を受けた際には、外交交渉で軍勢を退け、高麗は鴨緑江東部の江東6州を得た。
80万大軍を追いやり、女真を征服する機会まで得た。
後の江東6道の基礎となる城を築くことになった。
契丹をうまく利用したのだった。
995年契丹の侵攻を受けると、宋との関係を断絶し契丹と外交関係を結んだ。
997年成宗が病に
臣下の王融が健康のために罪人を解放しようとした。王は拒絶した。
罪人を許しても生命が増えるわけではない。次の王のためにそれはできないと伝えた。
「迷信を信じず。儒教者だった」李斎賢は成宗をよくを出さず王室を堅固にして人材を選び、民のことをよく面倒をみた。
真の善良な王と評価した。






















