第15代王の粛 宗 (在位1095-1105)
粛宗が王位に就き、高麗王室は再び強力な王権を中心に安定を取り戻した。
粛宗時代の社会と文化、粛宗は幼い頃から聡明で果敢で 本をたくさん読んで学問に長けていたため、文宗の寵愛を受けた
「後に王室を興す人はおまえになりそうだ」
粛宗の能力は王権が安定した後に精一杯発揮され、社会と文化の両面で高麗は大きな発展を遂げた。
1096年、粛宗は儒学者の意見を受け入れ、族内婚(6親等以内の婚姻)を禁止した。
以前までは母親が違えば兄妹間でも婚姻できたのに、これができないようにした。
族内婚を禁止したということは、それだけ儒学者の力が強くなったということだ。
「どうして知らない人と婚姻できるの?」「お互いによく知っている親族同士でするのが当然ではないか?」
この措置はあまり守られなかったが、この時から族内婚を嫌う風潮が生まれた。
これは我が民族の文化史においてかなり重要な意味を持っている。
これまでの王室でも近しい人同士で結婚をしていた。
4親等同士で結婚した場合が最も多く、母親が他の兄妹同士で結婚したり、叔母と甥、叔父と甥が結婚することも珍しくなかった。
国王が近親婚をしたのも全部で27件。そのうち13件が4親等の間だったそうだ。
近親婚は血統の純粋性を守ろうという目的もあったが、王室の権力分散を防ごうとする動きだった。
粛宗は、 宿願の王になりましたが、 気が休まらなかった。
人々から、 前王を追い出して国王になったと恨まれていたからだ。
肃宗は、弟の義 天を呼んで相談した。
「人々を情け深く治めなさい。そうすれば、そうした恨みは自然に消えてなくなるでしょう」
「それでは、どうすれば国をよく治めることができるのか」
「よく治めるということは、人々の不平を少なくしてあげることだ。
まず、税金を減らして、私が宋にいる時、宋ではお金を使用していた。
人々の生活にそれはとても便利なものだった。
また、商業も発展するようになり、宋にはないものがありませんでした。
お金を作り、人々の不平を少なくするようされてはいかがでしょうか」
「それは本当にいい考えだ」
このようにして粛宗は、お金を造る官庁である「鋳銭都監」を設置し、葉銭(硬貨)というものを造った。
この時、造られた葉銭が「海東通宝」「三韓重宝」「海東重宝」などだ。
民のために、粛宗は貨幣の使用を努力した。
1097年には鋳銭管を置いて硬貨を作って使わせ、
1101年には銀で高麗の国土の形を模して作った銀瓶を貨幣として使わせ、
1102年には韓国初の貨幣である海東通宝1万5,000館を作り、文武大臣と軍人に配った。
葉 銭が鋳造されると、人々の暮らしは楽になった。
1101年に義天が世を去ると、大きく悟った師という意味で、彼に「大覚国師」というおくり名が追尊された。
1099年 粛宗は深い悲しみに陥り、日々力を失っていった。
一番大事にしていた次男の泌が幼い時に命を失ったのである。
この隙を狙って粛宗の腹違いの弟である扶余公王守が王になるために勢力を拡大。
弟の私が王になるためには力をつけなければならない。
粛宗は即位する時、すでに42歳だったので、一日も早く王位継承者を決めなければならなかった。
「陛下、国の安定のために早く世子を決めてください。」
人々は今回も以前のように弟が王になることもできると考えていた。
しかし、粛宗には17歳になった長男の王俁(왕우)がいた。
したがって、扶余公王守が王位を継ぐ理由はなかった。
にもかかわらず、扶余公は王位に対する未練を捨てられず
「王手が謀反を企てたと? すぐに遠くに追い払ってしまえ。」
弟が次の王位を狙うという噂が流れると、粛宗は扶余公を島流しし、2ヶ月後に急いで王俁を太子に立てた。
1099年、金衛制の主張により南京を重視し、南京開昌都監を置いて宮殿を造成
現在のソウル、ハンソン(漢城)にナムギョン(南京)を設置し、新しい宮殿を建てた。
王の権威をさらに高めるためでした。
楊州に南京を置いて宮殿を建て、西京に箕子寺堂を作った。 女真征伐を断行したが失敗し、別武班を初めて設置した。
1101年3月には、国子監に書籍砲を置いて出版を奨励
また、儒学に力を入れる一方、元暁と義湘を国の師匠として立て、仏教の発展を図った。
高麗文化はさらに豊かに。
1102年に礼部で
「我が国が礼儀として教化するのは箕子から始まったので、願わくはその墳墓を探し、祠堂を建てて祭祀してください」
と粛宗に告げると、粛宗は西京に箕子祠を建てた。
力を育てた女真族が高麗を脅かす。
女真族は契丹の力が弱まった隙を狙って急速に成長していた。
「陛下、女真族が日々強くなり辺境が危険です」「女真の使節を丁重に迎え、できるだけ衝突を避けなさい」
1102年、粛宗は女真の使節を歓迎した。
そして、銀器の技術者を送ってくれたりもした。
辛うじて和解して戦争を鎮めたが、女真族が強くなるほど高麗は不安におびえた。
1102年と1103年には東輿津の太師領家(盈歌)が使臣を送って来朝したが、領家が亡くなり、オ·アソク(烏雅束)が太師になる。
1104年1月、東輿進の内紛を鎮圧するために烏雅束の騎兵が定住関門前まで進軍してきた。
同年2月に 林幹が関門の外に出て余震軍を攻撃して敗れ、
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★林幹
1097年(粛宗2)、知枢密院事·板三事に続き、枢密院事·尚書左卜也(樞密院使尙書左僕射)となった。
1101年に板状書刑部事、翌年には板書北面兵馬使兼中軍兵馬使となり、1103年に門下侍郎平章事に就いた。
この時、東女真の酋長オ·アソクが別府の部内路(夫乃老)と仲が良くなく、公衡と之助に軍を与え、これを攻撃させたが、彼らの騎兵が定州館の外に来て駐屯した。
これに対し、1104年に門下侍郎平将士として東北面行営兵馬使となり、余震に備えた。 鄭州城に至って女真軍と対峙したが、訓練されていない軍隊で敵と戦って敗れ、鄭州城を奪われた。 このため罷免されたが、再び復職した後、1112年(礼宗7)文下侍郎平将士として致仕した。
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1104年 3月 女真族が統合される過程で湾岸部勢力が南下し定住を侵した。
尹瓘が女真征伐を計画したがやはり勝てず火薬を締結して帰ってきた。
★尹瓘
https://blog.ameba.jp/ucs/entry/srventryinsertinput.do
これに伴い、尹瓘の主張で別武班を初めて設置した。
別武班は馬に乗る騎兵で構成された軍隊だ。
「女真の群れが国境を侵犯しました!」
内官が伝える急な報告を聞いても、 王や大臣たちは別に驚く気配 がない。
女真族が、 群れをなして国境で略奪を働くこ とはしばしはあったから。
そんなことがあってもいつも女族は 高麗の軍隊を怖がって、 逃亡していた。
女真族は鴨緑江付近に散らばって暮らしながら、 毎年のように高麗に朝貢していた。
高麗はこのような女真族のことをとくに気にもかけず、 警戒もしていなかった。
高麗がこのように油断している時、 女真族は様子を窺っていたのだった。
烏雅束が現われ、別々に暮らしていた女真族を一 か所に集め、 力をつけたのだ
★烏雅束 우아속
1097年(粛宗2)、知枢密院事·板三事に続き、枢密院事·尚書左卜也(樞密院使尙書左僕射)となった。
1101年に板状書刑部事、翌年には板書北面兵馬使兼中軍兵馬使となり、1103年に門下侍郎平章事に就いた。
この時、東女真の酋長オ·アソクが別府の部内路(夫乃老)と仲が良くなく、公衡と之助に軍を与え、これを攻撃させたが、彼らの騎兵が定州館の外に来て駐屯した。
これに対し、1104年に門下侍郎平将士として東北面行営兵馬使となり、余震に備えた。 鄭州城に至って女真軍と対峙したが、訓練されていない軍隊で敵と戦って敗れ、鄭州城を奪われた。 このため罷免されたが、再び復職した後、1112年(礼宗7)文下侍郎平将士として致仕した。
高麗はこのような事情に暗く、まっ たく知らずにいた。
2度目の報告が飛びこんできた。
「今回は略奪しにきたのではなく、 軍隊を率いて戦いを挑みにやってきた」
この時になって、 やっと王や大臣たちは慌てふためいた。
粛宗は、 林幹将軍を東北面の兵馬使に任じ、女真族を撃つように命じた。
<女真族のやつらなんか、 目をつぶってでも簡単にやっつけられる>
林幹はこのように自信満々で、 国境へと向かっていった。
しかし、烏雅束が率いる女真族は、甘くなかった。
女真族は馬をよく操る騎兵民族である。
ところが、 高麗の軍隊 は、 歩兵中心だったので、 女真族を簡単に打ち負かすことができなかった。
兵士を犠牲にするかもしれないと判断し、尹瓘は女真の頭目である烏雅東に使臣を送った。
「我が高麗は代々、 女真の人々を手厚くもてなしてきた。
ところが今 になって戦いを仕向けてくるというのは、 これは人間のなす道理ではない。 早く軍隊を引き揚げてほしい。」
烏雅束を説得し、 軍隊を引き返させようとした。
高麗軍は大敗を喫しました。
林幹は、生き残った軍隊を率いて命からがら定州城へ逃げ帰りました。
しかし、後を追ってきた女真族は定州城も陥れました。高麗軍は負け続け、追われました。
この時、林幹の部下の将軍である、拓俊京が剣を握り締めて叫びました。
★拓俊京 チョク·ジュンギョン 高麗時代最強の武臣といわれている。
https://blog.ameba.jp/ucs/entry/srventryupdateend.do
トッケビのコンユがチョクジュンギュンの役なのだ。
高麗前期に李副尚書の参知政使、文下侍郎平将士などを歴任した官吏だ。 貧しくて学問を磨くことができず、無頼輩たちと交遊し、後に粛宗に即位した鶏林君に追従する者になり、武官の道を歩んだ。 尹관に従って東輿進征伐に参加し、功績を立てた。 仁宗の黙認の下、李資謙の除去挙事が起きると、李資謙と共に乱を起こし、宮殿を燃やし鎮圧した。 その後、仁宗の説得で李資謙除去の先頭に立ち、鄭芝相の弾劾を受け流された。 仁宗は王室への功績を認め復権させたが、その後まもなく死亡した。
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「このまま、押されてばかりいては皆死んでしまう! 死を覚悟して私に続け!」
このようにして拓俊京が率いる勇敢な高麗兵士が定州城を奪い返しました。

とはいえ、定州城は、すでに女真によって火が放たれ、略奪されて、廃墟となった後でした。
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大みえをきって出陣した林幹が、女真族に大敗したという報告が入ってくると、高麗の朝廷は慌てた。
粛宗は今度は尹瓘を送った。
国境に着いた尹瓘は、まず敵の動態から探り始める
敵を知らないことには戦いに勝つことができない。
敵の動態をつかんだ尹瓘<歩兵では騎兵に勝つことはできない>
尹瓘は軍隊を一旦後退させることにした。
戦いに負けるどころか、へたをすると兵士を犠牲にするかもしれない。
そうして尹瓘は女真の頭目である鳥雅束に使臣を送った。
「我が高麗は代々、女真の人々を手厚くもてなしてきた。ところが今になって戦いを仕向けてくるというのは、これは人間のなす道理ではない。早く軍隊を引き上げるようにしなさい」
烏雅束を説得し、軍隊を引き返させようとしたのです。
意外にも烏雅束は尹瓘の言葉をたやすく受け入れた。
「初めから高麗と戦うつもりだったのではない。これからは我々女真を隣国としてみてくれるなら、引き上げよう」
こうして、烏雅束は軍隊をひきあげた。尹瓘は、開京に帰って粛宗に告げた。
「王様、女真はいつまた、国境を越えてくるかわかりません。しかも、敵は大部分騎兵です。
今後、女真を撃つために我が高麗もいっ時も早く騎兵を育成しなければなりません。」
尹瓘はついに騎兵で構成された、歩兵で構成された神保軍、僧都で構成された降魔軍、合計30万人を置き、別武班と称して女真征伐の準備をさせた。
別武班は このようにして、 新しい軍隊「別武班」が組織された。
別武班は騎兵[神騎軍]、 歩兵[神歩軍]、 僧兵[降魔軍]から合計30万人 構成された。
乗馬の上手な若者を騎兵「神騎軍」 、 20歳を越える若 者で、 科挙に応じなかった者を歩兵に選び「神歩軍」 寺院にいる若僧侶を選んで 「降魔軍」 を設けました。
こうして 1年過ぎ、 別武班は17万名にのぼる大軍に膨れ上がった。。。
1105年、西京に巡行して東明王墓に祭祀して帰る途中に病気になって開京に戻る途中、
長平門の外の山車の中(御輦)で崩御した。
陵は京畿道長檀郡(京畿道北西部にあった郡。
東は漣川郡、西は開豊郡、南は坡州郡、北は黄海道衿川郡と接した地域)にある英陵だ。
1910~1916年に出た日帝の発掘報告書によると、当時の行政区域上、京畿道長檀郡真西面板門里九井洞にある霊陵はひどく荒廃し、墳丘の高さは約1.8m、左右幅は約2.7mだったという。 陵区域は狭くなり、墳丘の屏風石はすでになくなった。 その前に朝鮮時代に建立した標石が立っており、石人2組と石獣1組が残っていた。 一つ疑問な点は、北朝鮮の学界がこの70年間、この王陵に注目せず、発掘もしなかったということだ。 2002年に発刊された『開城の昔の跡をたどって』にも高麗王陵を紹介しながら粛宗の英陵位置は把握できなかったと叙述されている。 2017年、北朝鮮学界の発掘が解放後初めて行われたわけだ。
この墓は現在、行政区域上で開城市船積里の所在地から西に3kmほど離れた低い山の斜面の中腹に位置している。 朝鮮中期の名器として知られたファン·ジニの墓と近く、父王である文宗の景陵(景陵)から南西に2kmほど離れている。 陵区域は南北長さ29m、東西幅13m程度で、東西方向に置かれた4つの築台が確認され、3つの区画で造成された。 このうち、北側の1段には墓室と墳丘基壇施設、墳丘の周りに囲んだ塀施設(曲蔵)が確認されたという。
墓室(墓室)は、よく整えられた花崗岩の石を2段に積み上げ、南北の長さ3メートル、東西の幅1.2メートル、高さ1.6メートルで構成された半地下式構造物であることが確認された。
墓場と陵の周辺からはいくつかの遺物も出土したが、金箔を施した木棺の皮の欠片と高麗時代の青銅のスプーンのへた、龍の模様の岩と軒丸、鳳凰鳥模様のスッキと軒丸瓦、竜頭模様の雑像(屋根装飾瓦の一種)彫刻が発見されたという。
該当遺物について北朝鮮側は「王陵としての性格と時期的特徴を示している」と評価した。 北朝鮮学界は、これらの遺物を根拠に、この王陵が粛宗の英陵だと断定した。 ヨンルン遺跡調査発掘隊のリュ·チュンソン隊長は「英陵で見るようになったのは、ここから出てきた鳳凰の模様の軒丸瓦と竜頭の雑像彫刻などがまさに高麗の王宮跡である満月台から出てきたものと同じだから」と明らかにした。 発掘が終わった後、北朝鮮は高麗王陵の造成様式に合わせて墓地を整備した。 2019年に撮影された写真を見ると、3段にあった2つの石獸を1段墳の横に移し、墳丘3面に曲長(曲墻)を復元したことが確認される。 2段目と3段目には文人石と武人石がそれぞれ配置されている。 ところが復元された粛宗英陵は様々な論争の的となった。
一つ目は、墳丘の下を囲んでいる屏風石が一つも出てこなかったという点だ。 高麗王陵の最も大きな特徴の一つが12石で囲んだ屏風石だが、屏風石が一片も発見されておらず、この墓を王陵と見るのは難しいという問題提起が可能だ。 ただ、朝鮮後期からこの王陵は粛宗英陵と把握され、他の高麗王陵の中でも屏風石が全て毀損されたものがあるため、この王陵を粛宗英陵と確定しても大きな無理はない。
第二に、北朝鮮はこの墓を3つの区画で造成された王陵と把握したが、3段下に丁字閣があった可能性を考慮すれば、3段ではなく4段で造成された王陵という点だ。 実際、粛宗前後に造成された他の王陵は、この墓のように2段と3段を横切る花崗岩の軸台を設置せず、概して2段に文人石4個を設置した。 この王陵が粛宗の霊陵であることが間違いなければ、高麗王陵の中で初めて4段構造で造成された事例になる。 ただ、発掘当時の写真を見ると、2段と3段の間に置かれた花崗岩の長台石は、2段と3段の間に積み上げたのではなく、3段に積み上げたものと判断でき、もう少し細かい検討が必要な状況だ。
三番目は文人石と共に武人石が建てられているという点だ。 発掘された武人石は手に長所を握っていると形象化され、その高さは2.1m程度で文人石より少し小さい。 通常、高麗王陵で無人石が登場する時点は、武臣政権以後の時期という点で、さまざまな解釈が可能になるものと見られる。 粛宗英陵で現れた多少異色的な特徴は、今後南北関係が改善される場合、南北の歴史学界と考古学界が共に総合的に議論しなければならない部分だ。 特に、最近撮影された写真を通じて、北朝鮮が発掘後、英陵を国宝遺跡第36号に新たに指定した事実が初めて確認された。 これまで北朝鮮の国宝遺跡第36号だった東明王陵は、国宝遺跡第15号に変更された。
北朝鮮は最近発掘された歴史遺跡を新たに国宝遺跡に指定する作業を着実に進めてきた。
北朝鮮は白頭山の麓で発見された「龍神碑閣」を2000年代に国宝遺跡第195号に追加指定し、その後2010年代に発掘した「玉島里高句麗壁画墓」と「太城里3号高句麗壁画墓」、2018年に江原道板橋郡で発掘した「光復寺跡」、2019年に新たに発掘した高麗太祖王建の祖母元昌王后の墓である温恵陵と平壌市江東郡香木里洞窟などを新たに国宝遺跡に指定している。
粛宗の英陵が国宝遺跡第36号と確認されたことで、北朝鮮が単に追加しただけでなく、国宝遺跡に対する再評価によって国宝遺跡指定体系を改編した可能性が高い。
実の甥を廃位して王に上がると、英陵の主人公である粛宗は1054年(文宗8)に文宗の三男として生まれ、高麗12代純宗、13代禅宗の弟だ。 彼は勤勉で質素で果断性があり、五経·弟子書·史書などに迫害したという。 文宗の大きな期待を受けて「後日王室を復興させる者はあなたである」という評価を受けた。 彼は実の甥である憲宗が幼い頃に即位してから1年後に王位を譲り受け、1095年に即位した。 この時期、高麗社会は北方では女真族の勢力が日々大きくなって急浮上しており、国内では仁州李氏を筆頭とした外戚門閥貴族の腐敗と享楽により社会的矛盾が深化していた。 このような状況で粛宗は門閥貴族である李資義一派を除去し、甥を廃位して即位した後、様々な改革政策を展開した。
今日のソウルである南京遷都を推進し、側近勢力を養成する一方、韓国史上初めて貨幣流通政策を施行した。
















