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みょんじゃさんのブログ

歴史オタク韓国中を旅しています。

 

王権に挑戦された仁宗·慶元·李氏が権力の中心に立っていたところ、 睿宗が亡くなった後、

14歳の幼い仁宗が王位に就くと、徐々に外戚勢力が権力を握って揺さぶり始めた。 

李資謙は自分の2番目の娘を睿宗の王妃として嫁がせ権勢を一手に握った。

睿宗が急逝すると、李資謙はすぐさま反対勢力を追い出し、外孫である太子を王座にした。

この時、王はまだ13歳の仁宗(在位1123-1146)。

李資謙勢力はさらに大きくなり、李資謙は自分の二人の娘を仁宗の王妃に嫁がせた。

仁宗は、自分の母の妹を二人も妻に迎えたことになる。

外戚勢力の中心に立っていたのが李資謙。 

資謙は慶元李氏の家系だったので、権力を振るうことができた。

 

その当時、北側では女真が建てた金の国がますます強盛になり、遼を倒した。

高麗は国境を堅固に守る一方、賢明な外交戦略も立てていた。

 

そんななか、国内では李資謙の勢力が日増しに大きくなり、王権が動揺し、まともに対策を練ることができなった。

 

慶元李氏は新羅末期と高麗初期の仁州地方の豪族。

顕宗から宣宗にまで、慶元李氏と関係のない人はいなかった。

特に、李資謙の大人は、次女が睿宗の妃になった後は、荒々しい。

李資謙の下心があったが、家臣の拓俊京将軍が賢く、うかつに動けなかった。

仁宗は、上将軍の呉卓と崔卓、それに大将軍の権秀を呼び、李資謙殺害を下した。

ところが、拓大臣の拓俊京の弟の拓俊臣と息子の拓純が殺されたのだ。

国の柱を立て直そうとした呉卓、崔卓、権秀らは、逆に李資謙と、拓俊京の手にかかって殺された。

この頃、武器を製造修理する官庁である軍器都監で少監の崔思全は李資謙の相談に拓俊京を訪ねた。

 

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崔思全★ 

  최사전묘지 (崔思全墓誌)

1140年(仁宗18)のもので、国立光州博物館にある。

高麗前期の秋忠衛士功臣に冊録された御医であり文臣。耽津崔氏の始祖。 
国立光州博物館は高麗時代の名医と呼ばれた崔思全医官の遺物を2011年2月に展示している。 

この展示会は武陽書院(耽津崔氏)が2009年に寄贈した「崔思全墓誌」で、高麗時代の王の医官だった

(崔思全、1067~1139)の行跡が楷書体で記録されている。
また、崔思全について観覧客の理解を助けるため、国立光州博物館は崔議員が当時薬を調製した機関である「上薬局(尙藥局)」という文字が刻まれた宝物第1023号青磁陰刻雲龍門上薬局明合(国立中央博物館所蔵)の写真を一緒に展示した。
崔思全墓誌、耽津崔氏 門中が日本による植民地時代に東京大学博物館に返還請願書を提出し、1921年に返還された遺物だ。

 

 

王の医官 內醫になって次第に昇進、小府少監になった人物。

예宗の登昌を誤診して死ぬことになり、韓安仁·文公美の処罰要請により2年間島流しになった。 

これを恨み、二人を李資謙に陥れ、流刑にさせた。

後に、崔思全は1126年(仁宗4)、拓俊京を説得して

李資謙の乱を平定した功績を立てて兵部上書と推忠衛になり、また守司空尙書左僕射を兼任した。

三韓後壁上功臣となり、門下侍郞平章事に昇進したが、致仕し、開府の東三使首台衛主国を受けた。 

諡号は莊景、仁宗廟庭に配向された。

https://encykorea.aks.ac.kr/Article/E0057349

전라남도 강진군 군동면 호라길 199-39

 

 

 

무양서원 武陽書院は1984年2月29日、光州広域市文化財資料第3号に指定されました。 高麗仁宗時代の御医·張慶公(チャン·ギョンゴン)·崔思田(チェ·サジョン)を主壁とし、彼の子孫である孫岩(ソンアム)·崔潤徳(チェ·ユンドク)、錦南(クムナム)·崔富(チェブ)と文節公(ムンジョルコン)の劉熙春(柳希春)、忠烈(チュンリョルゴン)、羅徳憲(ナドクホン)の5人を配向した書院