神や大いなる生命との繋がりを忘れて、人が分離したと思い込んでしまったのと同時に、聖霊は生まれたと言います。


究極的にあるがままを見たとしたら、あらゆる多種多様なエネルギーを包含する無限のワンネスのエネルギーだけが存在していると言えると思います。


そしてその中には、当然、分散しようとする力(ネガティヴ方向の力)も包摂されていると想像できます。


この分散しようとするエネルギー自体には良いも悪いもなく、集まる力があれば解散する力もエネルギーが流動的に流れるには必要です。


ただ、この分散する力が、分離を錯覚して、対象を認識して生み出し、その対象に様々な名前をつけ、解釈や概念を作り出してコンクリートして信念を持ってしまったのがエゴであり、投影世界なのではないでしょうか。



そして聖霊とは、繋がろうとする愛の力であり、

この凝り固まってしまったエネルギーを、分離の錯覚や概念、信念を取り消して、ワンネスの流れの中に戻し、再び繋がろうとする力に、聖霊、ハイヤーセルフ、阿弥陀仏、観音、キリストという名前を付けて認識していると言えると思います。


例えば、分離を頑なに信じて壁を作っている箇所(人、時期)が、繋がろうとする愛の力でその壁を壊されたとしても、分離しか見えていなければ、不幸な出来事、または誰かのせいと投影し思い込んで、更に強固な壁を作ろうと頑張ってしまいます。


逆に、壁がもともと薄くて、忘れていることもしばしば、という分離が薄い箇所(人、時期)は、自然と流れの中に繋いで貰って平安に過ごしていることが多いのかもしれません。


我々がよく同化してしまう、特別になりたい自分、他人との比較、自分が正しいという思い込み、どうせ自分はというイジケ、嫉妬、優越感、劣等感、欠乏、そして肉体、死の概念。


これらは様々なエネルギーが縁起として相互作用で流動する過程で、この凝り固まったフィルターを通って、翻訳や解釈していることとも言えるんじゃないでしょうか。


つまりドス黒い思考や、腹黒い考えが湧いたとしても、それは自分の思考ではなく、流動しているエネルギーを凝り固まったフィルターが翻訳して解釈しているに過ぎない。


繋がろうとする愛の力は常に摂理として働いていると言えます。一見、良からぬ出来事だとしても、それはワンネスの流れの中に戻る為の、壁を崩すプロセスと信頼し、抵抗しないならば、自然と元々包摂されている、大いなる生命と何度でも合流出来るのだと思います。


その時々、分離を強く感じていればいる程、より強く繋がろうとする愛のエネルギーが常に働いて調律してくれる。


毎度毎度、


流れを信頼する。抵抗しない。


あるがまま。


分離を認めてしまう度に、また戻して貰える。


感謝🙏🏽


読んで頂きありがとうございます😊


慈愛を込めて🙌🏽